聖書研究

御国と御心、いま我らと共に 朴大信

マタイによる福音書6章10節

はじめに

前回の「御名」と並んで、今回は「御国」と「御心」を求める祈りについて考察を進めます。聖書テキストは、マタイによる福音書6章10節(新共同訳)です。「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。

この「聖書研究」の初回で、祈りとは、信仰生活の呼吸のようなものだと述べました。息をしないと私たちは生きてゆかれないように、信仰や霊性も、祈りという呼吸を伴ってこそ、真の生命を宿すというものでしょう。ただし、呼吸は普段は意識されません。でももし窒息状態に陥り、空気を求めて口をパクパクしなければならなくなったとき、そこで初めて呼吸が切実に意識されるに違いありません。同様に、私たちが信仰上の困難を抱え、霊的な飢え渇きに苦しんで息を詰まらせるようなとき、祈りこそが必要とされ不可欠なものとなり、かけがえのない生命線となってくれるはずです。

問題は、こうした真実な命をもたらす祈りに私たちが生きているか、ということです。祈るとは、また別の言い方をすれば、神に向かって顔を向けることです。そんなことは誰でも承知していることでしょう。しかし誰もがいつでも、本当にそのように祈っているかと言えば、どうでしょうか。私たちは神に真剣に望みを抱いているだろうか。祈っているようで、実のところ、神からほとんど何も期待していないのではないか。祈りは、たちの現実を、世界の絶望を、したがってあらゆる将来を、いささかも変えるものではないと諦めてしまってはいないだろうか。

「将来」を求める祈り

ドイツの神学者G・エーベリンクは言います。「祈るとは、将来へと顔を向けること……神のほうへと顔を向けることは、将来へと顔を向けることとして理解される必要がある」(「祈りについて―主の祈りに関する説教」、『現代キリスト教思想叢書11』所収、390頁、白水社、1980年)。そしてこれに続けて、主の祈りに関して次のように述べるのです。

主の祈りの願いは、どれも……将来を求めての叫び声なのです。人間の切迫した無将来性ゆえの、神の将来を求める叫び声なのです。……特に第二番目の『み国を来たらせたまえ!』という願いほど、将来を求めるこの叫び声が、簡潔に主題化されている願いは、ほかにはありません。それは、究極の将来の到来を求める叫び声であり、あらゆる将来を求める叫び声なのです。ほかの願いは、この深みから出る叫びとして、はじめて理解できるものです。この願いは、あらゆる将来にかかわっていることから、いわばその反響板として、あらゆる深みの深みである必要があるのです。明らかに自分に責任のある苦難にも、また、自分に直接は責任のないように思われる苦難にも、すべての時代のすべての人間の苦難に、この願いが関与していく必要があるのです。

「究極の将来」を叫び求める祈りとは何でしょうか。何が、私たちにとって究極的な将来となるのでしょうか。私たちは人間である限り、つまり神の御前にあっては避け難い罪を棘として内包する存在である限り、どうあがいても、結局はカオスや破滅、したがって無、そして果てには死によってのみ込まれてしまう敗北下にあるのではないでしょうか。しかしそれ故にまた、どうして私たちは、この敗北に勝利する永遠の救いを、究極の将来として求めないままでいられるでしょうか。

こうしてみるなら、人間にとっての「究極の将来」とは、地上で生きている間のあれこれに留まらず、死の淵さえも超えてゆくものにこそ求めざるを得ません。そしてそれこそが、「御国」に外なりません。主イエスも私たちに命じられます。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(ルカ12:31)。

「御国」という言葉は、福音書においてしばしば「神の国」や「天の国」と言い換えられます。しかしここで注目したいのは、この御国について、主の祈りが、「御国を来たらせたまえ(御国が来ますように)」と教えている点です。究極の将来において、私たちが御国に「行けますように」ではなく、御国の方が、私たちの所に「来ますように」と祈る。これは重大な逆転です。御国を体験する場所が、文字通り天地逆転するからです。のみならず、時間のパラダイムが転換する。要するに、御国はもはや死後だけの事柄ではなく、私たちの生の現実の真っただ中に造り出される、神の出来事なのです。

もちろんここには、そう祈ることのできる根拠があります。ただし、私たちが自分の手で御国を引き寄せるのとはまるで違います。どこまでも御国の方からやって来る。否、やって来ている。否、実はもうやって来た! なぜなら、主イエスご自身の到来において、神の国の到来は始まっているからです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1: 15)。「近づいた」という動詞は、ギリシア語では完了形となっています。しかし言葉の捉え方によって二通りの解釈が可能で、神の国は、①既に到来した出来事ともとれるし、②近い未来に起こる出来事だということにもなるのです。つまり「御国を来たらせたまえ」と祈るとき、御国は「未だ」完成していないけれども、しかし「既に」この地上で始められている。あるいはこう言ってよければ、むしろ「既に」の確かさに支えられる終末論的な視座と緊張関係の中でこそ、私たちは「未だ」に象徴される混沌とした世界にあってもなお、信仰の目が開かれ、御前に立ち戻る悔い改めと共に、御国の到来をいよいよ切望する祈りに導かれるのです。

神の支配

世界では、痛ましいこと、悩ましいこと、許せないこと等が次々と起こり、私たちもこれらの渦に否応なしに巻き込まれます。しかし、私たちがそこでなお御名を呼び求め、「御国が来ますように」と祈りを募らせるとき、この世界はこのままで終わらないのだということ。また、神が私たちと共にいまし給うて、全てをご自身の御手の内に支配なさる方である限り、私たちの叫びは決して空しく消えることなく、聞き届けられるものであるということ。そしてその望みの橋が、私たちから細々とではなく、天の方から力強く私たちに向かって架けられている真実を、主の祈りは教えてくれます。なぜなら、神の国は既に来ており、主イエスと共に始まっているからです。そしてどこまでも、主イエスと共に完成され、この恵みの初穂は、この地上で味わわせて頂けるものだからです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21)。

ここで「国」(Βασιλεία バシレイア)という訳語につられて、ある一定の領域を物理的に囲む国土をつい連想しがちです。しかし神の国は、「ここにある」・「あそこにある」と指を指せるような所に固定されるものではなく、私たちが汗と血と涙を流しながら生きているまさにその馳せ場のただ中に、神の王的支配が及ぶことを意味します。罪と不条理に満ちた歴史に、神の決定的な支配が介入する出来事を指します。神の国とは、神の支配のこと。神の圧倒的な恵みのご支配が、からし種やパン種のように働いて、私たちの現実の中に香り豊かに充満してゆく祝福そのものなのです。決して、いつかどこかで実現する「未来」の話ではありません。未だ来ずではなく、今、この所に将(まさ)に来たるべき「将来」としての神の国が、私たちを捕えているのです。

その姿は完全に見えるものではないでしょう。おぼろげでしかないかもしれません。既に始まっている神の国は、未だその完成には至っていないからです。しかしだからこそ、私たちは日々「御国が来ますように」と唱えながら、そこでじっと待つのではなく、どこまでも神のご支配の中で、共にこの祈りを、歌うように祈り上げて前進するよう促されている気がしてなりません。私について来なさいと仰る主イエスの後ろ姿に従うとき、そこに、この祈りを真実に生きようとするキリストの群れ(教会共同体)の姿が立ち上がるからです。

その歩みは、時に厳しい闘いを強いられるかもしれません。「神の国」に忠実であればあるほど、それを妨げる様々なこの世の力に直面します。私たちを誘惑しようとする力が巧みに忍び寄ってきます。愛ではなく暴力が、望みでなく諦めが、信頼ではなく疑いが、真理ではなく偽りが、私たちの日常を、日本と世界を覆っています。しかし私たちは、これらの闇に立ち向かうとき、自らまでもが真実なる人としての姿を失った化け物にならないために、何度もこの主の祈りを祈り直したいと願わされるのです。世の闇を貫く神の御心

こうして、「御国が来ますように」と祈りながら、ここに込めた願いにさらに重ね合わせるようにして、私たちはまた次のように祈ります。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。御国の到来を信じ続ける祈りはそのまま、今度は、その御国を到来せしめるまさに神ご自身の御心が、いよいよこの地上でも天と同じく実現するものであるようにと強く願う祈りへと、たすきが繋がれるのです。

この祈りは、誰より主イエスご自身にとって切実な祈りとなりました。そしてこの時の切実さは、主の祈りを最初に教わった弟子たち、中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネにとっても生涯忘れ得ぬ記憶として、心に刻み付けられたことでしょう。なぜなら彼らは、主イエスがあのゲツセマネで、御心を求めて必死に苦闘する姿を目のあたりにしたからです(マタイ26:36以下)。十字架を目前にして、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と心を打ち明けられたとき、主が弟子たちに見せたのは、「悲しみもだえ」る姿でした。またこの悶絶する状況においてなお、主がひたすら「御心」の実現を求めて三度も祈られたとき、弟子たちの目に映ったのは、もはや主イエスに立つ力さえなく、あらゆる力が奪われて地面に伏してしまわれた、御子の弱り果てた姿に外なりません。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。このゲツセマネの祈りは、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と唱える主の祈りと響き合います。しかし「杯」はとうとう取り去られませんでた。主イエスはその夜、安らかに眠ることも許されないまま身柄を捕えられ、裁判にかけられ、翌日には鞭打たれ、ついに強引な死刑の判決を受けて十字架上で殺されました。その時、弟子たちは主を捨てて逃げ去りました。しかし私たちは知っています。その無残な死から甦られた主イエス自らが、弟子たちを訪ねてくださったことを。そして彼らはその時ようやく目覚めるのです。あの十字架上でこそ、御心は成し遂げられたのだと。あの十字架の下で露わになった人々の利己心や妬み、自分たちの偽りや自己矛盾、そうしたありとあらゆる人間の闇が渦巻く真っただ中で、神の御心こそが決定的に貫かれたのだと。

同様の類比は、旧約聖書の物語にも認められるでしょう。例えば創世記37章以下の「ヨセフ物語」。これはヨセフとその兄弟たちの物語であり、言ってみれば、ある一家の物語、それ故、どの家にも起こり得る妬みや不和、暴力といった人間模様を赤裸々に描いた物語でもあります。ハイライトはやはり45章です。兄たちから捨てられたヨセフは、紆余曲折を経ながらも夢解きの聡明な知恵が認められて、エジプトのファラオ王のお抱えの人物にまで上り詰めた。他方、この地方一帯に大飢饉が起こり、穀物を求めてはるばるエジプトにやって来た一団がいた。それがヨセフの兄たちです。しかし彼らは、自分たちが穀物を求めているその相手が弟ヨセフであることに気付きません。いたたまれなくなったヨセフの方がついに自らの身を明かすと、兄たちは驚きのあまり絶句しました。その昔、自分たちが弟にしたことを思えば震え上がったことでしょう。しかし、そこでヨセフは言うのです。「どうか、もっと近寄ってください」。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし……悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。……この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」(4~8節)。

驚くのは、ヨセフが、かつて自分を陥れた兄たちに雪辱を果たすどころか、その屈辱の日々にも神の采配を見出し、兄たちとの和解の扉を開いていることです。許し難き出来事の内にも神はいまし給うて、御心を貫いておられたことを確信するのです。言ってみれば、発端は家の内輪もめだった。しかし見かけとは裏腹に、その一部始終の展開は全て、この世界に対するまさに神の深い御心が実現するための大いなる救いの物語の一部であったことが証言されるのです。兄たちにしてみれば、現実を支配しているのは自分たちだという思いがあったでしょう。しかしその現実の背後に、神の真実が隠されていた。彼らの罪深さや身勝手さにも増して、より大きな手が働いていたのです。舞台俳優よりはるかに大きな働きをなす、まるで劇作家のような神ご自身の御心が、貫徹していたのです。「神には、歪んだ弓を用いて的を射ることも、足の不自由な馬を乗りこなすこともできる」(M・ルター)。

愛に生きる交わりの中で

以上の理解は、この世界で起こる全ては神の予定内のことであって、全ては御心通りの結果なのだという安易な結論を導くものではありません。なぜなら私たちは、御心に逆らう自由さえ与えられているからです。その自由を、どれだけ履き違えて来たことか。忘れてならないのは、そのように絶えず矛盾を抱え、いつでも自滅に向かいかねないこの人間世界に、しかし神は、驚くべき仕方で働かれるということです。そして御国の完成のために、いかなる破れや綻びをも、ご自身の御心の内に、赦しの内に、そして真実なる義において回復されるということなのです。

私たちは、主の祈りを生涯にわたって祈り続けます。しかし祈りは、現実逃避ではありません。むしろこの祈りの言葉を一つ一つ噛みしめるならば、今こそ主の祈りを必要としている現実が何であるかが良く見えて来るに違いありません。そして、もし見つめなければいけない現実が明確となり、そこに神の「将来」が望めるようになるなら、私たちの内には、キリストの愛の姿が形造られてゆくはずです。この愛の賜物によって織りなされる交わりの中でこそ、大いなる神の国の喜びは始まり、見出されるからです。

 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)。(続)   

(日本基督教団 松本東教会牧師)