真理と命に至る道 木村葉子

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」―ヨハネによる福音書14章6節

今年の春は花々の開花が早くその中での受難節でした。終わらないウクライナの戦争に苦しむ人々。キリスト教国の間の戦争に一層、人間の深い闇を突きつけられています。岸田政府の「歴史的防衛大転換」の宣言のもと「敵基地攻撃能力」の沖縄諸島のミサイル基地化、予算、法案など「安保三文書」による軍事大国化がおし進められています。地球規模の環境破壊や、人権、教育の負の状況の中で苦しむ人々、朝鮮学校の支援差別や入管法改悪や、また私が相談を受けている虐待の件でも気持ちが沈みます。

私たちは、とかく自分の常識・正しさ・価値観を基準に、身近な家族や知人や他の人を批判し否定しがちです。それが、隣人への不当な軽蔑や差別となり社会に拡大して、ついに国々の戦争に発展してしまう愚かさ。まして、敵対する相手では、その立場にたち、語ることを聞き、生き方を尊重し、互いを生かすことは本当に難しく、祈りと愛の執り成しを要します。 

そんな沈む気持ちのある日、娘が「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という本を貸してくれました。ノンフィクションで、主人公のぼくは、父母がアイルランド人と日本人、ロンドンの元底辺中学校の生徒。クラスには人種差別ヘイトを言う移民の子、アフリカからきた女子やジェンダーに悩むサッカー少年など様々。ナイーブな中学生時代、色々事件が起こります。しかし、彼らの交友は「みんなぼくの大切な友だちなんだ」と、優しくて大人の発想をはるかに越えている。感動し涙しました。飛んでる「母ちゃん」も付かず離れずでよい。そして一つには、新しい教育の良い影響ではないかとも思いました。

手元にある、ドイツの5~10年生道徳の教科書〈選択制・宗教科でない「5、6年実践哲学科の価値教育」明石書店〉を開くとその一端が分かります。テーマは「自他の価値や相手や相手の信条に対する敬意を持つ人は、相手の立場を受け止め、相手と協力して、共に責任を引き受けることが出来る」。知識よりも、解決へ向けどう考え実践するかが、授業で、対話や討論、演劇、絵や芸術などにより経験するように組まれています。例えば、イジメを、被害者、加害者、傍観者になってロールプレイし、どう感じたか、考えたか討論し、理解を深めるのです。

各章では1わたしの生き方、3争い、4正直さと嘘~善と悪、5法律、国家、経済への問、貧困と豊かさ、7自然と共にある生命~動物、8真実、現実、メディアへの問い、メィデアが作る世界、9起源、未来、意味への問い、世界の始まりと終わり、知識の限界、10様々な宗教と生活と祭り、ユダヤ教、聖都エルサレム、キリスト教・死と希望について~追悼儀式の意味 イスラーム、ヒンドゥ教。内容が、日本の道徳教科書と大違いです。

10章のユダヤ教の説明では「この2千年間、ユダヤ教徒は自らの国を持たず、世界中に離散している。その上、彼らは『第三帝国時代』のドイツで、追放され殺害された。キリスト教地域である全欧州で、中世から迫害された少数派である。民族の団結は、生活様式、安息日を祝うこと。3千年前、エジプトでの奴隷状態から自由になった際に授かった掟とされている」。

ユダヤ人憎悪は、ナチス・ドイツの反ユダヤ主義立法化によって全欧州に拡大しユダヤ人大量虐殺ホロコーストに至りました。

これらの大量虐殺と戦争責任を取る決意を、ドイツは教科書に具体化し、ユダヤ民族の歴史理解を深めて重罪の悔悟と謝罪と平和を追求しています。

「ユダヤ教徒の先祖は、見えない唯一の神を初めて信仰した人々、それがユダヤ教の根拠である」。旧約聖書、モーセは山上で十戒を神から授かった。その間、麓で待つ民はモーセの留守で不安になり、『金の子牛を作り踊った』という物語は、エジプトの多神教の世界で生きてきたイスラエルの民が目に見えない神を信じることがいかに難しかったかを示している」。

モーセがシナイ山から戻って来た時の物語を演じ、対立する立場の両方を経験することが課題となっています。「聖都エルサレムは、平和の名。しかし、これほど多数回、破壊され再建された都市は他にない、現在は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの宗教の聖地である。その意味とその争いについて知り討論すること。」

「現在、深い信仰を持つユダヤ教徒は、救世主(メシア)の到来を待ち望んでいる。イスラエルの民に平和と繁栄をもたらす救世主が来ると迫害と侮蔑は止まる。それはすべての民族のための地球上のシャーローム(平和)となる」。「終わりの日に起こること。彼らは剣を打ち直して鋤とし イザヤ書2章」を考え討論する。

キリスト教、「誕生した子が、なぜ平和のしるしなのか。『世界の救世主』が馬小屋で誕生したとルカは物語る。これはキリスト教の信仰についてどんな意味なのか」。

「神について~イエスは神についてたとえで語った。放蕩息子の父親、迷った羊を群れに戻す親切な羊飼い、誰も招待しない人々を晩餐会に招く心の広い主催者、すべての者に仕事を与え同じ賃金を払う雇い主であると。人々は感銘をうけた。神はイエスにとって雲の上の遠い存在ではない。」「死~イエスは、神について並外れた考えを持ち、敵をも生み出していた。彼がユダヤ教の神殿に入ると、神の家の中で店が開かれ、人々が騙されていた。そこでは、神は、主人でも父でも羊飼いでもなく、人々は神聖さに敬意を払っていなかった。腹を立てたイエスは、売人や両替主の台を倒し神殿から追い出した。イエスの行為や説教は、宗教的な理由があったにせよ、ローマの役人を不安にさせ、ついにイエスは、政治的な反乱者と平和を乱す者として逮捕された。弟子と友人はイエスを見捨てた。ローマの占領軍兵士にとっては、公共の秩序の維持が重要だった。短い審理の後に、彼らはイエスに最も残酷な死刑の十字架刑を言い渡した。」

ドイツの教科書で、福音書やイエスについてどう解釈され書かれているか一端が分かります。疑問だったのは、福音書によるとイエス刑死の主謀者は、ユダヤ教の宗教指導者たちだといえますが、その記述がありません。彼らは、イエスの宣教の初めから(マコ3:6)、説教や行為、奇跡などを憎悪し、神の冒涜者、ユダヤ教破壊者としてイエス殺害を相談し、最高法院を経てローマ総督ピラトへ告訴しました。

ドイツの教科書はなぜそうしたのか? 中世からキリスト教の全欧州で、ユダヤ人が嫌悪迫害された扇動の一つは、ユダヤ人がキリストを刑死させたことと言えます。その罪の責めをすべてのユダヤ人に着せてきた歪んだ暗黒の歴史に、この教科書が、再び火に油を注がないためなのか。その非道がついにホロコーストに至ったあまりの重罪ゆえに、あえてユダヤ教指導者・政治権力者と書くことを避けたのでしょうか。ユダヤ人への民族差別は今も根強いものがあると聞きます。

「神は沈黙する? ― マルコ福音書では、イエスが死ぬ前に恐ろしいほど苦しみ、神に完全に見放されたと感じた様子が語られている。彼の最後の言葉はユダヤ教の詩篇を思い起こさせる、『わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか』。キリスト教徒は、特に聖金曜日にはイエスの十字架の死に思いを寄せ悼む。この言葉は大変重要である。なぜなら、人間が繰り返し経験することを言葉で表しているから。それは、無実の者が苦しまねばならないことである。神が語ることがないとしても、苦しみや孤独を感じる時には、神が側にいてくださるとキリスト教徒は信じている。反対に、次のように言う人もいる。神は苦しみに対して何もしてくれず、一度たりとも語ったことがない。故に神は存在しないと。」①考察・討論、イエスが死刑に処された理由をテキストから探そう。②16世紀のグリューネヴァルトの祭壇画の十字架のイエスの姿は、修道院で看護した重病人の傷ついた身体と同じ。画家はなぜ、このように描いたのか。③今日、どんな所に無実にも関わらず、苦しみ、完全に見捨てられたと感じている人々がいるのか? イエスを手本にしたキリスト教の信仰は、彼らを助けることができるかどうか」。

週2時間の授業で、これらの問いに生徒がどんな討論をするのか、私は知りません。しかし、自分と級友の意見や感情を知り、だれもが大切にされる社会をどう作るか、自分の生き方にはじまり、国の主権者として、互いの協力と責任の必要を学ぶのではないでしょうか。

現在は多様性尊重の時代です。しかし、多様な生き方、価値観、思想、宗教が世に満ち、翻弄します。この洪水の中で、教育によって、人の多様性を尊重し、真摯に受けとめ敬意をもって相手を知る開かれた心の育成はとても大切です。しかし、その目的は、道徳的な知識やノウハウではない。人間の心、人格を育てるものは愛です。父母、家族、友、師、隣人、社会の愛であることを人は無意識にも感じています。クラスで、良い関係の経験をすることは宝。友の信頼が対話を実りあるものにし、教師の真理につながる教育愛が命を吹き込みます。他の人が自分たちと同じ考えを持たなくても間違いではない。違う意見の人の考えを怒り続けることや、自分を否定されたと思うのは間違い。誰も完全には知っていない。「キリスト教だけが正しい」という短絡的偏狭な考えは十字軍やユダヤ人大量虐殺の極悪に通じています。社会には、言葉巧みに誘惑し、悪へ引き込む悪魔的な力が存在します。真に価値あるものを見分けて生きるために必要なものは何でしょうか。

この、多様性の洪水の中で、私たちは、どのように相手の「思想、良心、信教の自由」を真摯に尊重しつつ、自らのキリスト者の生き方を確かにできるでしょうか。

イエスは、わたしに聞き従う人は、地面を深く掘り下げて岩の上に土台を置いてしっかり家を建てた人に似て、洪水に揺り動かされない(ルカ6・47―48)と教えました。イエスこそ揺るがない土台です。イエスが神について語られた放蕩息子などのたとえ話はどれも溢れる神の愛を伝えています。「父がわたしの内におられ、私が父の内にいる(ヨハ10・38、及14・11)」と語るイエスは、父なる神の救いの御計画を知り、み旨に従い罪の世を贖う意志を共有されていました。

「わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる(ヨハ10・9)」。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる(同11節)」。

最後の晩餐で、イエスは、ご自分の時(十字架)が来たことを悟り、世に残す弟子を愛しぬき、その足を洗い愛の模範を示されました。イエスは「心を騒がせるな。神を信じ、わたしをも信じなさい。父のもとへ共に住む所を準備して迎えること。その道をあなたがたは知っている」といわれた。トマスは「どこへ行かれるのか、その道を知りません」と尋ねると、イエスは真理の言葉を与えました。(ヨハネ14章)

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」御子は、御父のもとへ行く道を知っています。御子は父なる神と共におられ真理と命そのものです。イエスは、道となり、とりなし手となって神のもとへ信じる者を導き、真理と永遠の命をくださるのです。さらに、イエスは「わたしを知っているなら、……すでに父を見たことになる」と教えました。フィリポは、直に神を示され満足したいと迫りました。「こんなに長い間わたしと一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と主は嘆かれました。彼はガリラヤから3年間イエスと一緒でした。私たちも神を見たら信じられますと訴えがちです。しかし、それは、イエスがどんなお方であるか、その人格と御業について十分理解していないことが問題なのです。イエスの言葉は、神の言葉であり、イエスの業は、神の業なのです。イエスは、弟子たちに悟らせ守り助ける「聖霊」の派遣を約束されました。

主の愛と歩みと御言葉は、弟子の魂に忘れ難く刻まれ、揺るぎないイエスの証しとなりました。イエスの「新しい掟」~「私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」は、石ではなく、心に刻まれて、初代教会の信徒の間にこだまし、今も命を伝えています。「キリストは、神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(Ⅰコリ1:30)。主イエスの十字架が現実の歴史のただ中に屹立し、道標となっていることは世界にとって何と大きな神の救いであり恩恵でしょうか。キリストを深く掘り下げてその土台にしっかり建ち互いに祈りあい主の働き人とさせて頂きましょう。(ウェスレアン・ホーリネス教団 ひばりが丘北教会牧師)