聖書研究

イスラエルの教師ニコデモ 片柳 榮一

今日はヨハネ福音書三章のニコデモとの対話を取り上げてみたいと思います。この対話はちぐはぐです。一読しただけでは、話のつながりを追うこともかなり骨がおれます。もちろんヨハネ福音書の記者は意識的にこのちぐはぐさを創り出しているようです。そうした誤解、齟齬を通してイエスが語る福音の意味、そしてイエスそのものの存在を浮き彫りにしようとしているようです。

ニコデモという人についてまずパリサイ人であると紹介され、次いでユダヤ人たちの議員であると言われます。そのような重要人物であることが明かされます。ニコデモについてはこの箇所の他に七章五〇節では、イエスの不当な逮捕はなすべきではないと、いわば抗議をしていることからは、パリサイ人の中の良識派というイメージが浮かびます。

ニコデモは夜密かにやって来ます。夜とはっきり言われています。ここから我々がすぐ抱くイメージは、夜陰に紛れて、人に知られないように隠れてということです。ニコデモについては二〇章三八節以下で、イエスの埋葬に際して、アリマタヤのヨセフと共に当局に赴き、埋葬に関わったことが記されています。そこでヨセフに関して、弟子でありながらユダヤ人たちを恐れていた、と記されています。そのあとにニコデモについて記されているので、ニコデモも人々を恐れていたと連想されます。しかしこの当時のユダヤ教の教師は、習慣として、夜遅くまで学び、討論したということです(Ch.Barret,Das Evangelium nach Johannes,S.226)。ですから夜の訪問もそのためのものとも考えられます。或る注解者は「夜」という言葉に込められた「神秘的なるもの」への暗示を読み取ろうとしています(R.Bultmann,Das Evangelium des Johannes, S.93)。確かにこの対話の根底には、深い神の「神秘」が暗示されています。それを浮き彫りにするのは、「夜」の暗がりがふさわしいのか もしれません。

それはともかくこの訪問の目的が何であるかは直接には語られていません。最初の「ラビ(先生)」という呼びかけにも、ニコデモの真摯な姿勢を見ることが出来ます。ニコデモは最大級の賛辞を以て、イエスの存在を認め、評価します。さらにこの教師と対話して、神からの言葉を自らも聞きたいとの真摯な願望が感じられます。ニコデモは、イエスが神から遣わされた教師であることを認めます。その理由はイエスがなした徴の業は、神が共におられるのでなければ、決して生じないような類のものであるからだと言います。ここで何気なく使われた「神が共におられる」という言葉は旧約聖書ではきわめて重要な意味、役割を以ています。主がホレブの山でモーセに現れ、その名を問われて「在りて在る者」ということを語る有名な出エジプトの三章でも、主はモーセに現れて先ず「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(三・一二)。と言っています。あるいは有名なエレミヤの召命の記事においても、尻込みするエレミヤに向かって「『彼らを恐れるな。私があなたと共にいて必ず救い出す』と主は言われた」(エレミヤ一・八)と記されています。まさに「主が共に」というのは、神に遣わされ た者であることを示す最も優れた表現といえます。イエスのなした徴に感銘を受けた様子がうかがわれます。

イエスは、ニコデモのこの賞賛の言葉を、不思議なほど冷たく突き放します。「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。この言葉がちぐはぐな印象を与えるのは、ニコデモが、神の国を見る、神の国に入るとは如何なることかと、聞いたわけでもないのに、唐突に「誰でも新しく生まれなければ云々」とイエスが言い始めるからです。ニコデモは、イエスの業のうちに「神共に」という神の支配を認めています。しかし主イエスは、徴に於いて神の支配を観察し、認めるというのでは足りないのであり、自らが新たに生まれ変わらないなら、神の支配を見ることにはならないと、厳しく応答していると言えます。「生まれる」という言葉はそれ自身、これまでになかったものが始まることであり、過去との断絶が示唆されていますが、さらに「新しく」という言葉が付加されて、一層深い過去との断絶が求められています。

新しく生まれるという言葉の「新しくανωθενμενειν」は、「上から」という意味もあります。記者は意識的に両者の意味をこめているようです。ここではこれまでの生とは断絶した新たな始まりが問題ですが、単に新しく再び生まれるだけでは、古いことの繰り返しもありえます。「上から」という、これまでの「下」(地上)とは異なる超越、これまでとの断絶が要求されています。改めてこの唐突なイエスの言葉の衝撃的な意味が感じられます。四節の「年をとった者がどうして生まれることができましょう」という言葉からは、ニコデモが老人であることが読み取れるという人もいます。それはともかく老人であるということは過去の重みが重く離れがたく圧し掛かることであり、やり直せないということの痛みを感じることでもあります。もう一度母の胎に入ることは出来ないというニコデモの見当はずれでグロテスクでさえある返答に、このイエスの言葉の衝撃性が感じられます。記者はこのようにニコデモに返答させることで、イエスの言葉の異形性を際立たせていると言えます。その断絶性は六節の「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」という霊と肉の断絶を述べた言葉からも窺われます。私たちが肉の身体を持ち、地上の歩みを続けているとすれば、肉からは肉しか生まれないとの言葉は絶望的な思いをもたらします。

新しく生まれねばならないことを述べたことで驚くなとの七節のイエスの言葉は、あらためて肉と霊の間の深い断絶を思い起こさせます〔炯眼なルターはこの聖句を引いて「もし生まれ変わるなら、まず死に、次いで人の子とともに高く上げられる」(『ハイデルベルク討論』第二四命題、金子晴勇訳『ルター神学討論集』教文館、二〇一〇年)と述べ、新しく生まれるには死の断絶、否定を通らねばならないことを強調しています〕。八節でイエスは一つの譬えのような言葉を語ります。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」。確かにギリシア語では、プネウマの元来の意味は、風であり、また口からでる息であり、そこから神的な霊という意味をもってきます。この譬えは、こうした言葉の両義性を巧みに用いています。風は人の思いもよらぬ方向から、また分からない方向へと吹き抜けて行きます。音は聞きうるが、出どころ、行く先は分らない。風が思いのままに吹くように、霊から生まれるということも私たちの思いを越えた仕方で起こることであり、私たちの感覚的肉的考えを止めて、その不可思議さの前に黙して立つことが求められているようです。我々の思いを越えた不可視の存在から、新たな自己を受け取るために、これまでしがみついていたものを放し、自らを空しくされて、新しくされることが要求されているようです。

ニコデモは激しく抗議して「どうして、そんなことがありえましょうか」と言います。風が思いのままに吹くという事なら、日常生活で見ている事ですから、あり得ないなどとは言えません。そうではなくて、この譬えで暗示されたような意味で、人の思いを越え、人の意欲を越えて起こる「霊」の現実を認めず、そのような霊の吹き抜ける涯てしない広がりに開かれるという意味で新しく霊から生まれるということをニコデモは拒否したと言えるでしょう。この応答はイエスの厳しい批判を呼び起こします。「あなたはイスラエルの教師でありながら、このことを知らないのか」と叱責されます。主が言われる「イスラエルの教師」という言葉には或る種尊敬の響きが感じられます。イスラエル、それは神の真正なる民です。その指導者である教師が、この地上的なものを越えた「上」なる霊の涯しない広がり、支配を認めないなどということはありえないと主イエスは言われるのです。主の徴を神に遣わされた教師の業とまで崇めたニコデモは、イエスが差し出す「救い」の前で激しく抵抗します。主イエスとの対話の中で、自らがしがみついているものを露わにされて、抵抗しているとも言えます。

一一節の「私たちは知っていること、見たことを語り、証言するのに、あなた方は受け入れないわたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか」という言葉から窺えるのは、イエスのニコデモへの批難です。つまりこの風の譬えによって、イエスは知っていること、見聞きしたことを通して、我々がその内に生かされている見えざる霊の現実を指し示したのですが、ニコデモはそれを受け入れようとはしません。そのことへのイエスの批難です。この我々の生の霊的な事実は、なお「地上的なもの」をいわば纏っています。イエスによれば、さらに「天上的なこと」があり、あなたがたは入り口で躓いていてどうするのかと叱責されているようです。こうした言い方は第一章の終りでも言われました。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」(ヨハネ一・五〇)。この「天上のこと」、「もっと偉大なこと」とは何なのか、読む者は問わざるを得ません。 ヨハネ福音書は、ちぐはぐさをジグザグ重ねながら進んでゆきます。一三節では、唐突に、天から降ってきた者でなければ、天に昇った者はいないと言われます。しかしユダヤ人で聖書に馴染んだ人なら、旧約のエノクやエリヤは地上に生きた人間ですが、天に昇ったと言われていることを知っています。だから天から降って来たということが、必ずしも天に昇るための必要条件ではないと思うでしょう。前節との連関としては、「天上のこと」を知らない人々のために天に昇ることが問題なのでしょうか。こうした分かり難さを秘めた言葉ですが、グニルカという新約研究者は、この一三節の「天から降ってきた者でなければ、天に昇った者はいない」という言葉の重点は、一見天から降った者の地上への降下、つまり天的なものの告知のための降下にあるように見えるが、あくまで天に昇るということにあると注意しています(J.Gnilka,Theologie des Neuen Testaments,S.265)。この天への昇りは、地上にはない天的なものを地上にもたらすためではありません。この者はすでに天から降って来た者ですから、天的な知恵は携えているのです。それとは別なる「天に挙げられる」ことがここでは問題であるのです。ここに「もっと偉大なこと」が 隠されています。

ヨハネ福音書は、上げられるという言葉を独特の意味で用いています。八章二八節で「あなたたちは、人の子を上げた時に初めて……わかるであろう」と言われ、上げるということが「十字架につける」ということを意味しています。一二章三四節では「人の子は上げられなければならない」と言われています。ここでも十字架で死なねばならないことが暗示されています。しかもこうした十字架の死という意味で「上げられる」が使われる時は、「人の子」が必ず使われていることも特徴的であると言われます。記者にとって「人の子も上げられねばならない」(三・一四)とは、天的な性質をもった神聖なる者が、単に天に帰るということではありません。そうではなく、この天に上げられる者とは、苦しみを受け、十字架にかけられ、その十字架の「死から蘇る」者だということです。この福音書記者は、はっきりと十字架の死と復活を見据えています。そこにこそ「もっと偉大なこと」が見られるというのです。

こうして一四節の唐突とも思える旧約への言及の意味が明らかになってきます。その旧約の記事とは民数記二一章四~ 九節にある「青銅の蛇」の出来事です。荒野で窮乏生活を強いられた民は、不平を言い、神とモーセに逆らったのに対して、主は炎の蛇を送り、蛇に噛まれた多くの民が死にます。民が悔いてモーセが主に祈ると、「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇に噛まれた者がそれを見上げれば、命を得る」と主は言われ、「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人を噛んでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」という。この譬えで福音書記者が指し示すのは、蛇とキリストの対比というより、蛇が旗竿の先に上げられたこ とです。これを見上げる者は命を得たと言われます。明らかに強調点は、「上げられた」ことにあります。つまり十字架につけられる、非業の死、贖いの十字架です。「イスラエルの教師」はモーセが荒れ野で蛇を「上げた」ことに示された象徴を理解しなければならなかったのです。

引用した民数記の記事の最後の言葉が改めて印象的です。「その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」とあります。ヨハネ福音書三章一五節では、「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と言われていますが、民数記と福音書は「命を得る」ということで正確に対応しています。ただ旧約では人は再び日常生活の「命」を得たのに対して、福音書が約束するのは「永遠の命」です。この連続と深い断絶、相違はこの夜の暗がりの中で、しっかり見据えなければならないと思います。そしてこのニコデモとの対話の主要主題であった「新しく生まれる」ことに対する答えも、薄闇の中に示されます。「新しく生まれる」ということは、ニコデモがグロテスクに答えたように、肉体的に再び生まれることでもなく、またギリシアの賢者のように、自らの力で天的な知恵を得ることでもありません。そうではなく、天から降って肉となられた神の「言葉」の前に信仰をもって立ちつづけることであり、しかも我々のために十字架に架かるという仕方で「天に上げられた」方を見上げることによって、自らを空しくされ「新しく生まれる」ことだとヨハネ福音書は語りかけているようです。