ひろば

【入会式】 クリスチャンであることの喜びと神様への感謝 裵貞烈(べーチョンヨル)

今年、2023年の3月29日(水)12時、韓南(ハンナム)大学内の教会堂で飯島 信委員長、李相勁牧師、石川光顕さん、そして日本語のできる私の職場の同僚たちが温かく見守る中、共助会への入会を許されました。わざわざ日本からいらしてくださった共助会の3人の方に心より御礼を申し上げます。今までの私の人生を振り返ってみると瞬間瞬間が神様のお導きであり、すべてが神様のお恵みであることに感謝しています。

私は韓南大学の文科大学日語日文学科で、日本の古典文学と歴史、文化などの科目を担当しています。専門分野は日本の平安朝文学である和歌、物語文学です。

〈生い立ち〉

1959年10月、忠清北道永同郡陽江面で生まれました。村の前には大きな川が流れ、当時はその川を小さな木の舟で渡っていました。村全体が同じ姓で皆が親戚という小さな農村です。まだ電気も通っておらず、夜は灯油をともして明かりとしていた大変な田舎でした。そこから小学校(当時は国民学校)2年の時、慶尚北道金泉市に、鉄道員だった父の転勤によって転校することになります。小学校5年の時、初めて学校にテレビが設置されました。夜になると皆が学校に集まり、テレビを見ていたことを思い出します。生活の貧しさはありましたが、多くの友だちがいて幸せでした。そのころの友だちとは今も付き合いが続いています。

私の通った最初の小学校は、少子化のため廃校になりました。卒業した小学校は、当時は1学年2クラスで各クラスが40名ほどだったと記憶していますが、今は全校生で20名前後だそうです。今日の韓国の農村の現実です。ちなみに私はべビーブーム世代です。

私の2学年上から中学校の入試がなくなり、私たちは抽選で進学先を決められることになりました。私の通った中学校は、自宅を出て汽車に乗り、市内の駅まで行き、そこから歩いて40分かかるところにありました。駅からはバスもありましたが、歩いて行くのと学校に着く時間は差がありませんでしたので、普段は歩いて登校しました。通学の汽車は朝と夕方の2便だけでした。通学は大変でした。中学2年生の時、また父の転勤で忠清南道大田市(今の大田広域市)に移ることになり、そこで中学校、高校、大学までを過ごし、今も暮らしています。引っ越した当時は人口が40万人でしたが、今は4年制の大学が10校もある、人口150万人に達する大都会となっています。

〈日本語を専攻する〉

高校3年の時、進路として陸軍士官学校も考えてはいましたが、父母の希望もあり大学の法学部を目指すこととなりました。当時の私は世間知らずで、大学入試に関する情報もほとんど持たないまま受験に失敗し、ソウルで1年間浪人をすることになりました。翌年の受験でもまた失敗をしてしまい、失意のどん底にいたとき、父が家の近くの大学を受験するよう勧めてくれました。その年の受験に失敗すれば兵役に行かざるを得ないところに追い込まれていましたので、否応はありませんでした。その大学は文学部の英文学科が有名だからということで文学部を選びました。1979年、こうして入学した韓南(ハンナム)大学1年生の春、学生生活には馴染まず、学問への興味も湧かず、ただ、気の合う活発な友たちとともに演劇部に入りました。勉強より彼らとの遊びに夢中でした。

当時の韓南大学文学部は2年生進学時に学科を決めることになっていました。遊びほうけていた私は希望の学科に成績不良のため進学できず、志望者の少ない日本語学科に振り分けられました。日本語学科の定員は40人なのに、クラスメイトは20名弱。うち女子学生は1人だけでした。在籍する多くの学生は勉強にあまり関心を持っていませんでした。

当時、韓国の大学で日本語学科を表に出していたのはソウルにある外国語大学くらいで、人気どころか、そのような学科の存在すら一般には知られていませんでした。日本による植民地支配の記憶も生々しく残る時代で、日本への反感だけではなく、韓国人としてのアイデンティティを取り戻すためということもあったのでしょう。日本や日本人に対しては、たいへん否定的な印象しかなかった時代です。そういう時期に自分の専攻が日本語となったのです。しばらくは人にいうことも、まして親に報告することもできませんでした。

私の人生の最初の転機です。

〈兵隊に行く、そこで洗礼を受ける〉

大学に入学した79年は朴正熙(パクチョンヒ)大統領射殺事件があり、翌80年には光州民主化運動がおこるなど、国全体が混乱の時期でした。韓南大学も主としてソウルのキャンパスとの分離問題を巡る学園紛争のため、毎日のように学生たちのデモが行われました。学生生活初めの2年間はまともに授業も行われませんでした。日本語学科に配属されてからも大学と社会に対する不満と不安で、将来も見えない暗黒の時期でした。2年生の2学期の秋、全国の大学が休校になっているし、どうせ行かなければならない兵役をこの際済ませてしまおうと、何人かの友人たちとともに海兵隊に志願することにしました。ここで2度目の転機を迎えることとなります。

海兵隊では、訓練だけではなく、毎日の生活自体がとても厳しいものでした。階級制に基づく独特の雰囲気と秩序意識、自分たちは誇り高い海兵隊員だという変なプライド、そして窮屈な集団生活からのストレスは入隊前の想像を超えるものでした。当時は同じ兵役といっても義務期間が海軍と空軍は36か月間、陸軍は33か月間であったのに対して、海兵隊はその厳しさ故に30か月間と短く設定されていました。少しでも早く兵役を終えられるというメリットと、厳しい訓練をくぐり抜けた男になるのだという自負心で志願したものの、私は自分の選択に対して後悔をし続けていました。

そんな軍隊生活の多くの記憶の中で、心に焼き付いて忘れられないのは、米軍との協同訓練の際に痛感した韓米両国間の格差でした。軍事力や経済力の差についてはもとより理解していました。ただ、直接アメリカ兵と接する中で、同じ人間なのに、彼らとわれらは違う種類の人間じゃないかという気すらしました。米国の豊かさに対する若干のやっかみもあったのでしょうが、私の心の中に屈辱感が湧き上がりました。韓国人としての私のみすぼらしさや、韓国という発展途上の国家に対する責任感を感じました。兵隊が終われば早く大学に戻って勉強をしたい。大学生活を忠実に送りたい。そんな気持ちでいっぱいになりました。そして訓練の合間にほんの少しでも時間ができれば、平仮名とカタカナ、そして日本語の基礎単語を覚えていきました。

新兵としての基礎訓練教育を12週間受けた後、第一師団に配属されました。そこで過ごした厳しい2年間の生活の中で、毎週の日曜に、部隊の中にある教会の礼拝に参加するのが楽しみとなりました。専属の牧師はいらっしゃいませんでしたが、部隊の何人かと神学校出身の先輩兵士で礼拝が執り行われました。大学にいたときにはチャペルとキリスト教関連の必須科目を嫌っていた私が毎週の教会を心待ちにし、日曜礼拝には欠かさず出席しました。この教会で私は洗礼を受けることになりました。

〈日本留学〉

2年半の海兵隊の生活を無事に終えると大学3年生として復学です。83年3月30日に除隊して翌4月1日に韓南大学に帰ってきました。新学期は3月1日からですので、1か月遅れの復学でした。学校の雰囲気は大きく変わっていました。女子学生が半分近くなり、日本語専攻の人気もだいぶ高くなっていました。また、日本人の教員が3人もいらっしゃいました。

毎朝8時には学校に行き、予習をしてから授業に出席する。授業の内容は難しかったものの、明確な目標ができました。成績を上げ、日本語がうまくなることです。復学した年には、学科

の催しである日本語劇にも参加しました。日本語の勉強にもなりましたし、学科の友たちとの付き合いを増やすきっかけともなりました。4年生の時には、学科の学生代表兼、文科大学(文学部)の学生代表としても活動しました。大学生活がとても楽しくなりました。

受講科目は日本語とキリスト教関連の科目を集中的に選びました。3年生まで義務づけられていた週1回のチャペルでの学びに4年生になっても自主的に参加しました。3年生の時にアメリカ人宣教師としていらっしゃっていたゲーテ博士のクリスチャンリーダーシップ教育を通して聖書の勉強と伝道会にも参加するようになりました。

日本語学科では、日本人の先生にもよくしていただきました。先生は特別に勉強会の指導までしてくださいました。個人的にも親しくなり、いろいろと相談に乗っていただく中で、日本留学を薦められました。先生は、もっと勉強するように、そして韓国国内での日本の評価と実際の日本とは大きく違うから、それを自分の目で確かめて欲しいと仰いました。4年生の時の、日本の姉妹大学の学生たちとの一週間の交流セミナーが留学の意志を決定づけてくれました。セミナー期間中は学生リーダーとして日本人と交流し、日本人学生のホームステイも受け入れました。ぜひとも日本へ行きたくなりました。

日本への留学は私の人生での3度目の転機です。85年2月に大学を卒業して、その年の4月、姉妹大学である香川県の四国学院大学に1年間の交換留学生として渡日しました。そのまま日本文学の勉強を続けたかったのですが、四国学院大学には専攻の大学院がありませんでしたので、1年後に大阪市立大学文学部大学院を受験しました。が、失敗。再受験に向け、同大学院の聴講生として香川から大阪まで夜行の船で通学しました。本当につらい、私の人生の中で兵役期間に次ぐ試練の時期でした。時は流れ、翌年の春、私は念願の大学院進学を果たし、大阪で修士課程と博士課程を修了することになります。〈大阪での生活〉と〈共助会との出会い〉などについては次の機会に報告することとします。

〈結び〉

私の人生の3度の転機、すなわち日本語が専攻になったこと、海兵隊での2年半、そして8年間の日本留学、それぞれが思い

もしなかったことであり、また厳しい試練の期間でもありました。しかし今振り返ってみれば、みなわれらの神様に導かれてのことであり、そうして今日があることへの感謝の気持ちで一杯です。日本語を学ぶことで日本や日本人との交流ができ、私の人生が豊かになったことにも感謝しています。

(韓南大学 日語日文学科教授)