ヘブル書を読むために《前篇》川田 殖
〈一〉
ヘブル書は私(たち)にとって読みやすい手紙ではない。旧約聖書の引用がやたらに多い上に、その説明の仕方もなじみにくく、話題も次から次へと変わって行く中で、あちこちに警告やすすめがある。がまんして読んでいるうちに、最後に近くようやく「信仰とは…」といった文章が出てきて、昔の信仰者の例があげられ、「あなたがたもこう生きなさい」といったすすめとはげましがある。最後に手紙ふうのむすびがあるが、こんな手紙を私たちが今もらったら当惑するだろう。
パウロの手紙もやさしくはないが、書かれた事情がわかればかなり納得が行く。発信人はもちろん、宛先も大体見当がつくからだ。しかしへブル書はそのどちらもはっきりしないし、学者がいうことも千差万別、容易に一致点がない。この点は去年学んだエフェソ書やその前のコロサイ書と似ているが、もっとわかりづらい。結局は人の意見も聞きながら、自分でよく読んで、自分なりにきめていくしかない。
何度か、いろいろの訳(時には原文)で読んでいるうちに、いろいろなことに気付いてくる。引用(しかもその多くはいわゆる「七十人訳」ギリシア語聖書LXX)の多いのはユダヤの会堂(シナゴーグ)で行われていた礼拝、または聖書研究の中で、テキストまたは証言とされているためだということ、説明の仕方がなじめないのは、当時行われていた釈義(意味を明らかにすること)の仕方が独特のものだったということ、話題の展開の多いことは、これが一時に書かれたものではなくて、いくども繰り返された話の集成であるということ、警告やすすめが散在するのは、そのたびごとに一つか二つであるということ、しかもその中には読者が初心者でなく、(原始教会の信仰告白さらにはパウロの贖罪論と律法理解を知っているばかりか、)中にはすでに迫害を経験したひともあるということ、これらすべてが聖書に照らし合わせて過去と現在がつながり、将来が示唆されていること、最後の信仰のすすめや列伝なども、すでにユダヤ教の知恵文学のうちに前例があるということ、しかも全体として終末的信仰に支えられた希望と信頼につらぬかれていることなどが注目される。さらに原文は非常に整ったギリシア語である上に、ところどころプラトン的な哲学用語がでてくることなどにも気づかされる。
〈二〉
以上の諸点を全体として考えるとき、へブル書はキリスト教の発端をふまえ、かなりの程度進展した段階のものだということに気付かされる。その一つのキーワードは「会堂」(シナゴーグ)である。とりあえず手元の共同訳聖書 聖書辞典(新教出版社)で確認しておこう。
「会堂」は、一般にスュナゴゲーと呼ばれたが、このギリシア語は単に〈集会所〉の意味であった。ユダヤ人にとって、会堂は礼拝、裁判、子供のための学校などの機能を果たすところの、地域共同体の中心地であった。バビロン捕囚以前においては、礼拝の中心はエルサレム神殿であったが、それでもなおこの地方会堂の役割は大きかった(エレミヤ書36:6、10、12―15)。そして会堂の重要性がとくに増したのは、神殿破壊を伴った捕囚の時代である。もちろん、神殿礼拝で行われていた犠牲祭儀を会堂が代行することはできなかったが、むしろ律法教育の場として、信仰の伝統を守る働きをしたのである。そして新約時代に至るまでに、ユダヤ人社会のあるところにはどんな場所にも会堂は建設されていた(使徒13:5、14:1、17:10)。それぞれの会堂は、民の長老たちによって管理され(ルカ7:3―5)、また〈会堂づかさ〉が諸事の指導をしていた。しかし同時に、誰でも集会で語ることは許されており、イエスもパウロやバルナバも会堂で説教したことがある。
ユダヤ人は安息日ごとに会堂に集まり、さらに週の第2日と第5日には、律法の朗読のために集まった。集会は申命記(6:4―9、11:13―21)、民数記(15:37―41)などの重要聖句が読まれ、つづいて起立して祈祷し(マタイ6:5)、そのあと、聖書の朗読と解釈などがなされた。会堂には、朗読用の机、腰掛け、律法の書を収める戸棚または箱が備えられ、会衆は男女別々に着席した。
会堂の存在と活動は、捕囚後のユダヤ人社会の形成団結に役立つとともに、宗教的伝統の保持、国民教育の徹底、さらには外地のユダヤ人(ディアスポラ)の結束のために大きな働きをなし、また、初期のキリスト教伝道のひとつの足がかりとして、パウロなどの働きと関係している(使徒13:43、17:4、22:17等)。
イエスの会堂での姿はルカ4:16―20に、またパウロの伝道がまず会堂でなされたことは使徒13:14以下の伝道旅行の記事に明らかである。そしてその伝道が手紙の内容を規定していることもいうまでもない。へブル書においても、このことは当然のこととして考えられる。
第二のキーワードは「離散のひと」(ディアスポラ)である。「離散のひと」は、パレスチナ以外に住むユダヤ人をさす。ディアスポラ(離散の意味)と呼ばれ、母国を離れて古代世界の各地に離散したユダヤ人が多くあった。1世紀にはパレスチナに居住するユダヤ人よりも国外に移住したディアスポラの数の方が多かったほどである。彼らの大部分は異国に居住しつつ、母国の宗教の信奉者であり、各地に会堂をつくって礼拝を守り、エルサレム神殿には税を納め、また祭りには巡礼に赴いた(使徒2:9―11)。この離散の理由は、外国の捕囚になって連れ去られたり、また自国の滅亡による脱出移住などが例として多い。この離散者はヘブル語を忘れ、当時の共通語のギリシア語を話しており、「ギリシア語を使うユダヤ人」(使徒6:1)であった。初代教会の世界伝道は、この各地の離散者を対象としてスタートしている。
新約聖書のなかではパウロもディアスポラの家系であり、彼の回心のきっかけになったステパノ(使徒6・8章)も、ディアスポラで、ステパノの死がキリスト教の世界伝道への出発点となったことも奇しきできごと(ひとつの奇跡)である。
第3のキーワードは「アレクサンドリア」である。「アレクサンドリア」は、アレクサンドロス大王によって、前332年にエジプトの北岸ナイルのカノピク河口に建てられたギリシア風の都市で、王の名に因んで名づけられた。ここに当時50万巻にあまるパピルスの巻物を蔵する図書館があり、学問文化の中心地であった。旧約聖書のギリシア語訳(セプチュアギンタ、七十人訳LXX)も、この地で前3世紀頃(あるいはそれ以後)に完成された。ここのユダヤ人の植民者は、新約時代に彼らの会堂をエルサレムに持っていた(使徒6:9)。アポロの出身地である(使徒 18 : 24 )。また通商の要地でもあり、ここからローマへ穀物の輸出が行われ、パウロはローマに送ら れる途中、それを運ぶ船に便乗した(使徒 27 : 6、 28 : 11 )。
ギリシア古典期の文化的中心がアテネであれば、ヘレニズム期のそれはアレクサンドリアであり、これがローマ文化の基盤 になる。プラトン哲学をマスターして、旧約(ことに十戒)を比 喩的に釈義し、聖書を当時の世界に広める大きな役割 を果たしたユダヤ人哲学者フィロンもアレクサンドリアの出身であり、 イエスの同時代人だった。この思想がアレクサンドリアのキリ スト教学校、その校長クレメンス( 150― 215 )、 オリゲネス ( 185― 254 )、 さ ら に は の ち の アウグスティヌス ( 354―430 )に与えた影響ははかり知れないが、その前に出てくるアポロという人に注目したい。
彼の記事は使 18 : 24 ― 28 にあるが、アレクサンドリア生まれ で、聖書(LXX)に通じ、能弁な(弁論術にすぐれた)彼はイエス のことを聞き、会堂で語った。すでにパウロに出会い、生活を 共にし、福音の真義を心得ていた、アキラとプリスカは、彼を 迎え入れ、いっそう詳しくキリスト教の信仰を説明した。
「アキラ」は、小アジアのポントス生まれのユダヤ人。妻プリ スキラとともに熱心なキリスト教徒で、初代の教会の重要な 人物。ローマにいたが、クラウディウス皇帝のユダヤ人追放 令( 49 年頃)でコリントに移住。天幕業者で、パウロと親交を あつくし、その伝道を助けた。パウロとともにエペソへ行き、 その家庭を家の教会とした(使徒 18 章、ローマ 16 : 3、Ⅰコリン ト 16 : 19 、Ⅱテモテ4: 19 )。
「プリスカ」は、夫アキラとともにパウロの伝道に協力をした 女性(ローマ 16 : 3)。名前がラテン名であるので、ローマ人と 考えられる。夫アキラはパウロと同業の天幕造りであったこ とから、コリントに伝道に来たパウロとの関係をもち(使徒 18 : 2、3)、その後パウロとともにエペソにまで同行している (使徒 18 : 18 )。プリスカの指小詞形による愛称は、プリスキラ であり、使徒行伝での使用は全部この名称であった。聖書の 中で夫アキラとともに常に名を残しているが、2回をのぞい て(使徒 18 : 2、Ⅰコリント 16 : 19 )、彼女の名が夫の名に先ん じている。これは彼女の働きのすぐれたことをあらわすもの であろう。
つまりアポロはこの二人を介してパウロの信仰にもふれてい たと思われる。アポロはやがてコリント教会に迎えられ大きな 役割を果たしたが(Ⅰコリント1: 12 、3:4、 16 : 12 )、そこから やがてローマに行ったのではないか。そこにはアキラとプリス キラもふたたび帰っていたのかもしれない。クラウディウス皇 帝追放令は帝の死( 54 年)後、解除されたらしいからである。
〈三〉
ここで舞台はローマに移る。ルカ2:1にはイエスの誕生に ちなんで帝国第1代の皇帝アウグストゥスの名が出てくる(紀 元前5)。イエスが十字架にかけられたのは、過越の月(ニサン) の 14 日(満月の金曜日は天文学的に)後 30年とされる。マルコ12 : 16 の納税問答に出てくるカイサルの像は第2代皇帝ティベリウ スの像(位 14 ― 37 )だからこの話はこの時代のものである。彼が 晩年政治を委ねた近衛長官セイアヌス(前 20 ―後 31 )は陰謀家で 31 年処刑。ユダヤ総督ポンテオ・ピラト(位 26 ― 36 )はその係累 だったといわれる。第3代カリグラ(〝軍隊靴〟。本名ガイウス。位 37 ― 41 )は自己の神格化(皇帝礼拝)で名を残した。第4代クラ ウディウス(位 41 ― 54 )についてはさきにふれたが、皇后アグリッ ピナに毒殺された。第5代は彼女の子ネロ(位 54 ― 68 )で、17 歳で即位、最初の5年間は近衛隊長ブルルスと哲人セネカの後 見を受けて史上稀な善政を行ったが、長ずるに及んで放縦とな り、母を殺させ、各地を豪遊、晩年には暴政が昂じ意に従わぬ 者をセネカも含めて次々と処刑した。ローマの大火( 64 )の際に は風評を消すため、これをキリスト教徒に転嫁して迫害したこ とは有名である。総じてこの数十年間の混沌とした目を覆わせ るローマの惨状は、タキトゥスの『年代記』、スエトニウスの 『皇帝列伝』(いずれも岩波文庫に和訳あり)に明らかで、いわゆる 「ローマの平和」(Pax Romana)の実態を示している。
ネロが自決してアウグストゥス以来のユリウス・クラウディ ウス朝は断絶した。以後天下は麻のごとく乱れて、軍隊の力を 背景としたガルバ、オトー、ヴィテリウスが相次いで即位した が、短日月で没落、ヴィテリウスを倒したウェスパシアヌスが 内乱を鎮め、平和を回復した。彼はネロの晩年( 66 )エルサレム で起こった第一次ユダヤ戦争の鎮圧者であったが、平定は息子 のティトゥスに委ねて帝位争奪戦に加わり勝利した。(ヨセフス 『ユダヤ戦記』〈邦訳あり〉にくわしい)。彼についで王となったのは ティトゥス(位 79 ― 81 )で善政を施し、今に残る凱旋門、コロセ ウム、浴場などはこの時代のもの。その弟ドミチアヌス(位 81 ― 96 )は 外 征 に は 実 績 を あ げ た が 専 制 的 傾 向 が 強 く 、 も っ ぱ ら 先 の ガイウスに見られたような自己神格化の姿勢も見られた。こ の時代のキリスト教迫害の実態はつまびらかではないが、「ヨハネ黙示録」はそれが背景だと考えられる。
それにつづくおよそ百年は五賢帝 ― ネルウア(位 96 ― 98 )、トラヤヌス( 98 ― 117 )、 ハドリアヌス ( 117― 138 )、 アントニウス ・ ピウス ( 138―161 )、 マルクス・アウレリウス(1 61 ― 180 )― の 時 代 で 外 征 、 内政共に整い、善政が続いたが、キリスト教に対しては必ずし も好意的でなく、むしろ政策的見地から対処した感が強い。最 後の王はストア哲学者だったが、その豊かな自省の反面(『自省録』岩波文庫に翻訳あり)ストア主義の諦観的態度は困難な政局で必ずしも幸いしなかったといわれる。《前編終り》
(哲学者・日本基督教団岩村田教会員)