巻頭言

7月7日の朝日新聞「天声人語」で衝撃的な事実を知った。  荒川 朋子

 80年前の7月8日、ビルマ戦線。私の出身地、群馬県高崎市にあった旧日本軍215連隊が、ミャンマー南部のカラゴンという千人ほどの村で、尋問の末、英軍を支援していると疑われた600人以上を銃殺した。そのうち250人以上は子どもであったという。この大量虐殺の後、火が放たれ村は壊滅した。ビルマ戦線の話は知っていたが、まさか自分の故郷の連隊がそんな残虐行為を行っていたとは。言葉を失った。
 アジア学院では4年前から、戦時中の元捕虜とその家族、そして日本人の間の和解のための活動をする恵子ホームズさんを迎えて、恵子さんご自身の和解の旅路の証を聞き、アジア学院のアジアからの学生たちに対する謝罪の時を持っている。
 恵子さんは三重県熊野町出身のイギリス在住の日本人。イギリス人のご主人を不慮の事故で亡くした数年後の1988年に、思いがけなく故郷の山中であるものを発見する。それは第二次世界大戦中、東南アジアで日本軍の捕虜となって熊野の入鹿村の鉱山に連行された英国兵300人のうち、亡くなった16人の兵士たちの墓石と記念碑だった。それらは入鹿村の村人たちによって長年整備されていた。そのことがきっかけとなって、恵子さんは神様と二人三脚の、生涯をかけた「和解のための旅路」を始める。以来恵子さんは30年以上にわたって精力的に世界各地、日本各地を回って講演活動をしている。
 恵子さんがアジア学院に来るようになってから、私も一日本人としてアジアからの学生たちへの謝罪に加わってきた。しかし前述の事実によって、この謝罪は一気に「自分事」になった。ミャンマーではなかったが、私の両祖父も旧日本軍に従軍し前線に赴いた。多くを語らなかったが、アジアの国々で多くの命を傷つけてきたはずである。
 戦後80年経って、戦争が遠ざかるどころか、ますます身近に迫ってきた。どのようにこの思いを伝えようか。どう罪を赦してもらおうか。アジアの友の顔が目に浮かび、心が痛い。(アジア学院常務理事)