追悼

田中邦夫兄を偲ぶ――「お父さんは神様の仕事をしに行くんだよ」下村喜八

昨年の12月11日に敬愛する田中邦夫兄が天に召された。最後に電話で話せたのは、その二週間ほど前で、その時はほとんど聴力を失っておられた。一方的に話させて欲しいと断り、

20分ほど話しつづけた。まず、信仰によって与えられる神の義は「力」なのだと熱っぽく語った。信仰と行為は一体であり、切り離すことはできないと言いたかったのであろうか、あるいは神の義は私たちを変革する力であると言いたかったのであろうか。前者であると推測される。ついで、しみじみとした口調で、イエスがハンセン病者の身体に触って癒やされたことについて語った。その言葉には、自分もまた、病と苦しみを担ってくださる神の懐に帰るのだという確信と平安が宿っているように思われた。

私が最初に田中兄と出会ったのは、京都大学の共助会聖書研究会であった。二人は同じ歳であった。その後、私たちは、北白川教会、川田殖先生宅での聖書研究会、長野の正安寺および佐久学舎での聖書研究会と、同じ信仰と学びの道をたどっている。田中兄は関心領域が広く、また物事を的確な言葉で表現する能力に秀でていた。いつしか交わりが深まり、私にとって掛け替えのない友人となった。大学三年生のときに誘いあって同じ下宿に移った。一緒に聖書を読み、祈るためであった。その冬、北白川教会と共助会の祈りの場である瓜生山で一緒に早天祈祷会を始めた。ところがあまり丈夫でない私は、数日後に風邪を引いて寝込んでしまった。風邪の症状が長引いたこともあって、早天祈祷会は頓挫となり残念なことであった。大学院を終えたあとは、勤務地の関係で会う機会が少なくなった。

30代の後半、鹿児島の彼を訪ねた時、彼の運転する自動車で薩摩半島を海沿いに走る楽しい時が与えられた。晴天に恵まれ、真っ青な海を眺めながら語り合う、ゆったりとした行程のドライブであった。旅から帰ったあと、数ヶ月のあいだ、私の体の中で青い果てしない海が広がりつづけていた。実に不思議な体験であったが、全開の心の中に密かに海が侵入していたものと思われる。田中兄と故小川隆雄兄を私の家に誘ったことがあった。車で1時間20分ほどの所にある高野山に案内した。道中、後部座席でほとんどやむことなく議論をつづけていた二人は、高野山に着くと、不機嫌そうな顔をしてだまりこくってしまった。私は心配して、ここは気に入らないのかと尋ねた。すると二人から、圧倒されて声も出ないのだという返事が返ってきた。そこは、樹齢一千年近い杉の林が延々とつづき、樹木の間に織田信長や武田信玄をはじめ上杉謙信、明智光秀等、かつて戦い合った武将たちが静かに眠っている。明智光秀の墓もきれいに掃除がされ、お花が手向てあった。

1999年4月に国立大学の法人化が検討されはじめた。地方の大学からは一斉に反対の声があがった。その中でも特に強く反対の態度を示したのは鹿児島大学であった。その渦中にあって、田中兄は学長補佐として主導的な役割を担っていた。彼はタクシーに乗っているときも本や資料を読んでいたと聞いている。彼の主張は次のようなものであった。行政改革の一環として法人化が行われようとしているが、行政改革の「外側から」の要求と、大学改革の「内側から」の要求とが矛盾対立することになる。これが彼の主張の基本的な論拠である。大学の本来的な任務は、教育においては、創造的な自己形成能力の養成であり、研究においては、未知の学術的価値の発見である。

行革の考えは、創造的な業務には適さないと思われる。政府は、国民の税金を投じる以上、国が教育・研究の企画立案の権能をもっていると主張する。しかし、それでは大学存立の本質的要件である教育研究の自由、自律性、自発性が削がれる恐れがある。また、主務大臣は、6年ごとの中期目標の作成と実施計画、および成果の報告を求め、それによって評価を行い、その評価に基づいて交付金を重点的に配分しようとしている。その場合、以下のような疑念が生じる。創造的な営みにおいては途中で目標の変更が生じる可能性がある。専門性の高い業績を評価することは可能であろうか。短期間に成果を出すことを求められ、じっくり研究に取り組むことができなくなる。特に基礎研究への無心な没頭を妨げることになる。書類作成のために多大な労力を要する。また、地方の大学は、産学連携や寄付による収入を得るには不利な状況におかれているため、法人化は、大学機能の大都市集中を促進し、地方大学をますます衰退させることになる。それは地方分権と地方活性化を阻害することになる。(『日本の論題 2001』文藝春秋 参照)

そのような反対意見を押し切る形で、2004年4月に全国の国立大学は法人に移行した。それから20余年が経過した今、田中兄の危惧していたことがほとんど現実となっている。研究活動に限って言えば、研究の自由が狭まり、期限付きの雇用が増え、短期間に成果を求められ、かつ十分な研究費が得られないために、いわゆる頭脳流失が増加している。研究と教育と書類作成で多忙を極める教授の姿を目にしているため、大学院進学を希望する学生が減少し、若手の研究者が育っていないと言われている。今後、日本からノーベル賞級の研究者は出ないであろうと予測する人も多い。

田中兄は、『共助』誌や共助会の京阪神修養会でさまざまな問題を提起し、私たちを啓発してくれた。それらの諸問題の中から、森明論、共助会の使命、福音と文化等について思い起こしたい。ただそれらはおびただしい読書量によって裏打ちされているため、まだよく咀嚼することができていない。別の機会に《寄稿》という形で書かせていただければと思っている。

ここでは森明の文章についてのみ触れておきたい。彼はあるとき私に、森明の文章を読んでいると不思議と心が落ち着くと語ったことがある。『共助』にも書いている。「あらゆる文体を駆使しているにもかかわらず、彼の文章は、文体それ自体で既にエイレーネー(確かな平安)を送り届けるように思われたのである。このようなことは稀有のことと言わねばならない」。以来、『森明著作集』を手に取るたびに、私にも同じ事が起こる。

《故人略歴》(鹿児島大学に照会したところ、個人情報のため要望に応えられないとのことであった)

1942年4月26日 田中六七八郎・サチの長男として、福島県福島市に生まれる。

1961年4月 京都大学理学部入学

1963年4月 文学部に転入。哲学専攻

1964年12月19日 日本基督教団北白川教会において受洗(奥田成孝牧師司式)

1968年5月13日 水野玲子と結婚(奥田成孝牧師司式)。長女祐喜子、長男敦を授かる。

1971年3月  京都大学文学部博士課程修了。

1973年4月 鹿児島大学法文学部講師。その後同大学助教授、教授。

2007年3月  鹿児島大学退職。

2024年12月11日 午前4時33分召天 82歳。

主な著書

『パラダイム論の諸相』(鹿児島大学法文学部)(1995年)

『知のポリフォニー ― テキストによる人文科学入門』(共著、松柏社、2003年)

祐喜子様からのお手紙によると、田中兄は、病に倒れてから、祐喜子様に次のようなことを言い残していったとのことである。「お父さんは神様の仕事をしに行くんだよ」「ああ内村鑑三はすばらしい。今まで思っていたよりもはるかに」「お父さんは悲しくて泣いているんじゃない。うれしくて泣いているのだよ」。御家族の皆様に主の慰めが豊かにありますように祈ります。

(日本基督教団 御所教会員)