「アジアへの謝罪によって平和を築く」 石田真一郎
今回の夏期修養会の主題は、「和解 ― キリストの十字架による赦しに押し出されて」で、聖書箇所は、新約聖書エフェソの信徒への手紙2章11~22節です。
最近、太平洋戦争でのアジアの国々に対する日本の補償が、既に十分行われたと考える日本人が多くなったと聞きます。今年は敗戦後80年ですが、戦争の記憶が薄れ、日本社会全体が右傾化しています。石破首相は「戦後80年談話」を少なくとも8月に出すことを断念したと報道されていますが、ある大学教授が、「今、かつての戦争を反省する談話を出しても、中国などに政治的に利用されるだけなので、出す意味が薄れている」とコメントしていました。私はしかし、悔い改め、謝罪、お詫びは本来、政治的状況に左右されて出したり出さなかったりするものではないので、相手への謝罪が足りなければ、足りるまで行うのが本当と思います。神様が「もう謝罪は十分」と言ってくださるのか、伺う必要があります。
私が1988年に洗礼を受けた日本キリスト教団筑波学園教会の青年会に、その頃、Aさんという私より8歳年上の方がおられて、韓国に留学して帰国された大学院生でした。日本と韓国の近代史を研究テーマにしておられました。Aさんが青年会でお話してくださったとき、エフェソ2章でお話されました。ここに出て来る「二つのもの」は、旧約聖書以来の神の民ユダヤ人(イスラエル人)とユダヤ人以外(異邦人)です。その両者がキリストの十字架の死によって一つの体になって、神と和解し、ユダヤ人も異邦人も「神の民」となることが記されています。Aさんは、「二つのもの」を日本人と韓国人と捉え直し、両者の和解をテーマに話されました。当時、筑波学園教会は創立10年少々の若い教会で、初期を支えたのは、韓国人の留学生の方々でした。
教会で1992年ごろ、韓国訪問ツアーも行われました。私は行かなかったのですが、妻(結婚前)は行きました。韓国のクリスチャン青年と交流したのですが、「日本のPKO参加についてどう思いますか」と厳しい質問を受けたそうです。日本の自衛隊が初めてカンボジアでのPKOに参加し、国内でも賛成・反対の激論がありました。韓国の方々も注目しておられ、日本の膨張主義復活ではないかと厳しい目が向けられていました。
私が韓国に二回目に行った2002年に、初めて独立記念館に行きました。1980年代に日本の教科書問題がありました。それまで歴史教科書に日本がアジアを侵略したと書かれていたのに、進出と書き換えられたことが、アジアから抗議を受けたのです。これを受けて、韓国では独立記念館が国家プロジェクトとして建設されたと聞きました。私は、展示で従軍慰安婦を英語でsexual slave(性奴隷)と記載しているのを見て、「韓国では、そして国際的には性奴隷と認識されているのか」と、衝撃を受けました。日本人もこの認識に立つ必要があります。
キリスト教共助会員でいらした李仁夏先生が書かれた『歴史の狭間を生きる』(日本キリスト教団出版局)という本に、次の出来事が記されています(石田が要約)。
「私は1965年9月、日本基督教団と日本キリスト教協議会を代表する大村勇牧師の通訳としてソウルに行った。韓国基督教長老会の議長の招きで、戦後初めて日本の教会の代表が、総会の中で、世界中のゲストと共に挨拶することになっていた。ところが代議員から異議が続出。無理もない。過去の清算がないまま、韓国民の反対を押し切って韓日条約は締結されていた。韓国の教会には、1938年秋の総会で、日本基督教会総会議長・富田満牧師の勧告で、『神社は宗教に非ず且基督教の教理に反せざる本義を理解し神社参拝が愛国的国家儀式なることを自覚す仍(より)て茲(ここ)に神社参拝を率先励行し』と、痛恨の決議をして国家権力に屈した。にもかかわらず教会は閉門され、多くの殉教者を出した。それに対して日本の教会から公式な謝罪もないまま、戦後20年たっていた。
総会は、激論の末、『日本の教会代表の挨拶を受けるか否か』を採決し、受ける側が1票差で過半数を得、受けることに決定。大村牧師に、最初の挨拶をハングルで語ることを提案すると喜んで了解された。「アンニョンハシムニッカ」に始まり、『私が皆様をかつて支配した言葉でご挨拶することをお許しください』と言ってもらうために特訓。超満員の500名収容の会堂は『針のむしろ。』しかし大村牧師のハングルでの挨拶と、日本語でのお詫びの言葉に、聴衆の顔に驚きとかすかなほほえみ。謙虚な大村牧師が『日本の植民地支配が、皆様にいかに大きな困難を強いてきたか』と語り、頭を下げて謝罪すると、私の通訳が終わらないうちに拍手が鳴り始め、満堂を揺るがす拍手に変わり、全参加者が立ち上がり、大村牧師は韓国人からスタンディング・オベイションの名誉を勝ち取った。私は聖霊の現存の証しを現場で目撃し、幸いに思った。」
大村牧師もこの出来事に深い感銘を受け、帰国後すぐにご自分が奉仕する阿佐ヶ谷教会の礼拝の説教で語られました。説教題は「まず行って兄弟と和解せよ」。聖書は、マタイ福音書5章23~24節「だから、あなたが祭壇で供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(『日本の説教者 大村勇』日本キリスト教団出版局、石田が要約)。
大村先生は、ハングルで挨拶した後、日本語でこう語られたそうです。「私はこの総会に日本基督教団の正式のメッセージを携えて来た。それを読む前に一言、私の気持ちを述べたい。この度、こちらに来て、皆様の当面している厳しい現実に、私は初めて体をもって、じかに触れた。日本にいては経験できない現実。皆さんの心の痛みに触れることができた。神様の鋭い剣に心を貫かれた思いで、私は恐れとおののきをもって感謝している。私は、ソウル滞在中、あらゆる機会に、謙虚に皆さんの言われることを聞きたい。そして日本の教会として主の前に今、何をなすべきであるかを本気で考えたい。」議場からは割れるような拍手が起こり、最も強く反対していた人たちも、拍手していました。大村先生はその時、聖霊による和解をはっきり感じたそうです。「空気がすっかり変わり、非常な感激で、あとは温かい歓迎を受けて六日間を過ごした。」
大村牧師は、「なぜ韓国ではこんなに教会が盛んなのか、私にとって長い間の謎でした。今度それを知りました。それは韓国の教会が、民族の迫害、苦難の中にあって、民族を立たせる働きをしてきたからです。日本の教会の一番欠けている点は、歴史の問題に対して責任をとっていないことです。罪責の問題に対して、何よりも先にしなければならないことは、『まず行ってその兄弟と和解』することです。日本の教会が、もしこのことをしないならば、キリストに従うことをやめたと同じです。『だから、あなたが祭壇で供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。』キリストの御言葉を本当に聴くならば、まずこのことを行わなければならない。でなければ、教会が教会にならない。主に従っていない。礼拝は空虚になる。真実な神への礼拝ではない。目に見える兄弟を愛さないで、どうして神を愛していると言えるでしょうか。神の愛を言いながら、隣人を愛さないなら、偽り者ではないでしょうか」(1965年10月)。
日本基督教団は、1967年3月に、当時の鈴木正久議長名で戦争責任告白を出しました。「「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。」
私は東京都東久留米市に住んでいますが、「東久留米キリスト者九条の会」という小さな会に入っています。憲法九条を守る意志をもつ超教派の会です。以前、鈴木伶子さんという方を、講師にお招きしました。戦争責任告白を出された鈴木正久元議長のご息女です。ご自分が韓国に行かれた時の話をなさいました。日本統治時代に神社参拝を拒否して獄中で亡くなった牧師の娘さん(と記憶しています)と交流なさったそうです。その方が鈴木さんに「私はあなたを赦します」とおっしゃったそうです。きっと「日本人を赦します」の意味だと思います。
私は昨年3月の共助会の韓国ツアーに参加して、念願の提岩(チェアム)教会訪問を果たすことができました。日本の憲兵による殺人が行われた教会です。妻は筑波学園教会の1992年頃の韓国訪問で行きました。私は行かず、昨年32年間の念願を果たしました。ベ・テランさんが案内してくださり、大変感謝でした。教会と記念館は改修中で入れませんでしたが、私は現地に立って祈ることで十分でした。私はベ・テランさんとご一緒に祈りました。日本人の大きな罪を神様に謝罪し、今後、韓国と日本が、平和でよい関係を築くことができるように、祈りました。アジアへの謝罪を誠実に行ってこそ、神様に喜ばれる日本になると信じます。
(日本基督教団 東久留米教会牧師)