説教

神の憐れみの中に 飯島 信

【基督教共助会創立 100周年記念総会 開会礼拝  説教 】

「愛にはいつわりがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマの信徒への手紙 第12章9―12節)

共助会創立100年を迎えた2019年度総会の朝、私は2つの目に留まった小さな記事から説教の任を務めたいと思います。大島純男さんが送って下さった昭和31(1956)年10月15日発行の「共助通信」第47号に載っていたものです。

まず6頁の委員会記録には次のような記載がありました。

「松隈兄より機会を見て静岡で共助会を始めたいとの希望が述べられ一同諒承した。」

松隈兄とは、本間誠の後を受け、1960年より約30年にわたって目白町教会を牧会した松隈敬三です。私は、この記事を読んで、私たちが数年前から取り組み始めている地方を主体とした共助会の交わりは、半世紀以上も前からすでに取り組まれている事を知りました。松隈は、この時、京都にも松本にも東京にも共助会はあるのに、なぜ静岡で共助会を始めることを申し出たのか、委員会はどのような思いで松隈の申し出を了承したのかを考えるのです。松隈は、共助会の集まりを静岡にも創りたいと願い、委員会も松隈の願いを共助会設立の主旨に沿う事として受け止めたからこそ了承したのだと思います。

私は、共助会の集まりは、全国各地にあって良いと思います。むしろ、この100年の時を機に、さらに多くの共助会の集まりが全国の至る所に生み出されればと思うのです。何故でしょうか。その理由は、青森に行かれた小笠原亮一さんの悲痛な叫びを知っているからです。小笠原さんは、私に向かって、1度ならず繰り返した言葉がありました。

「飯島君、共助会の交わりは本当に大切だよ。青森に来てつくづく知らされている。」

私は、私に向かって繰り返し語られたその言葉の真意を測りかねていました。あの敬愛してやまない小笠原さんが、なぜ繰り返し共助会の交わりの意味を改めて私に話されたのかをです。しかし、今になって思います。小笠原さんの信仰者としての歩みを育んだ京都共助会の交わりと同じものを、青森の地に見出せなかったからです。招聘を受けた教会を初めとして、主に在る友情に生きようとする志を持つ者を見出すことが出来なかった、だからこそ、共助会の交わりの大切さを私に語ったのだと思います。

1971年の夏、初めて共助会の修養会に参加した私ですが、入会したのは1975年の夏でした。71年から75年までの足かけ5年間、夏と秋の全ての修養会に参加し、共助会の命とも言うべきものを尋ね求めました。それは、神のみを義とする事でした。そして、入会するにあたって、奥田成孝、小笠原亮一、安積力也の3人が紹介者となって下さいました。奥田成孝の信仰、小笠原亮一の信仰、安積さんのキリスト者としての信実な生き様、私にとっては、かけがえのない信仰の師であり、友です。

小笠原亮一の悲痛な叫びに応えるには、青森に共助会の交わりを創り出すことです。その交わりの原点に何を据えるのか。改めて言うまでもありません。問われているのは、綱領とも呼ぶべきこの2つの柱を、己の生活現実の中で常に問い直し、友を尋ね求めているかと言うことです。森明が命懸けで友を求めたその何分の1でも良い、友を尋ね、友を求めているかと言うことです。

先日も、私の携帯に見知らぬ方から電話がかかって来ました。

「『共助』誌を読んでいます。内容は素晴らしいです。どこに行けば、探している記事を自由に読めるのですか」と。キリスト教雑誌として『共助』誌を定期購読される方がいます。『共助』誌に励まされ、人生の慰めや安らぎ、生きる力と希望が与えられる人が1人でもいるならば、そこには共助会の交わりを創り出す新たな命が生まれています。共助会とは、共助会の交わりに生かされている自分が今こうして生きていること、小笠原さんの言葉を借りるなら、青森の地にあって新潟の友を思い、東京の友を思い、同じ戦いを戦っているその友らの歩みに励まされ、支えられている。その思いこそが共助会の命だと思います。

規約らしい規約もなく、事務所もなく、どこからの支援も受けず、歴史を刻み続けている信仰者の小さき群れです。しかしその交わりには、信実な命が満ちています。この信実な命に触れて、私たちは又人生の馳せ場へと押し出されて行きます。もし教会の交わりでその力が10分に与えられているならば、敢えて共助会の交わりは必要ではないかも知れません。しかし、『共助』誌を通し伝えられている福音の豊かな命、あるいは又具体的な交わりを通して分かち合う豊かな命を必要とする者がいる限り、共助会の歩みは続きます。

奥田成孝が記した文章があります。

戦前版『共助』誌に掲載された「魂の人、森明先生」の中の1節です。奥田は、森明について次のように語ります。「先生の周囲に集められた者、必ずしも所いわゆる謂有能な人が多くあったとは申せないと思います。寧ろ多くは肉体的、精神的に傷つき、疲れ失せたる者どもが多くあったのではなかろうか、先生はそれらの人達に対して渾身の愛を傾けられて、それぞれの望みを与え志を起さしめ如いか何にしてもキリストの御用に役立つものとせられたいと祈り戦われたことを思うのであります。」

こう記した後、次のようにも述べるのです。「このように申して参りますと、或あるいは聞きようによりますと主イエスにおきかえるに先生を以てしたように思われる方があるかも知れぬと思います。或あるいは又先生の信仰は福音的であるよりは、キリストにならう倫理的なものであったように思われる方もあるかも知れませぬ。

確かに以上述べて参ったようにイエスと弟子の人格的な交わりの経験を、ある意味で先生と私どもとの間に経験せしめられたと言う事が言えると思いますが、決してそれは森先生中心にとどまらなかったと言うことであります。そのことについては小さいながらも私どもの生涯がこれを証していると言えるのではないかと思います。絶えずキリストの聖愛に対して自らを聖別された先生との交わりは、いつしか先生の姿は背後に退いて、私どもの魂の面前にはキリストの姿があざやかにならしめられつつあったと言うのが私どもの経験であったのであります。」

私は、この奥田の証言、即ち「先生との交わりは、いつしか先生の姿は背後に退いて、私どもの魂の面前にはキリストの姿があざやかにならしめられつつあった」事実こそ、共助会に対する様々な問いかけへの応答であると思うのです。

共助会は、友にキリストを紹介する事を使命とする「キリストの他自由独立の団体」であり、そのための「主に在る友情」に生きる団体です。その歩みは、1教会、1教派に止まるものではありません。

奥田先生はかつて、野辺山で行われた夏期信仰修養会の全体懇談会の席上、次のようにも語っています。「教会が、神様の御前にあって、その御心に適う真実な教会となった時には、共助会の使命は終わっても良い」と。

私は、共助会の使命の1つに、友にキリストを紹介する事と、教会に仕える事があると思います。私が共助会に入会した時の感想を『共助』誌に書いた時の事です。奥田先生から葉書が届きました。私が共助会との出会いによって1度去った教会に再び戻り得た事に触れ、そこにこそ共助会の果たすべき役割があると記されていました。つまり、教会の交わりに躓き、教会を去った者に、今1度神とキリストの亮一の前に立たしめ、神のみを義とする砕かれた魂の中に教会の交わりに戻し、教会に仕える者となる。それが共助会の役割でもあると言うのでした。教会に仕えるとは、真実な教会とならしめるために、神の前にあって欠けたる器が、友と切磋琢磨しつつ、共助会らしい言葉を使えば福音的人格となる事を目指して歩む事だと思います。

「飯島君、共助会の交わりは大切だよ」と言う小笠原さんの言葉の意味するところ、そして「教会の交わりの欠けたるところを補い、教会に仕える者となる」と言う奥田先生の言葉に、共助会の交わりに生かされている私がいます。

続いて「共助通信」のあと1つの記事です。

同じく6頁には、会計報告として会費31年度分納入者の名前があり、そこに今泉源吉1000円と記されていました。

私は、戦前及び戦時下に「みくに運動」を展開した今泉は、敗戦後は一切共助会との関わりを断っていたと思っていました。確かに、戦後の「共助」誌に彼が寄せた文章はありません。しかし、大島さんから指摘され、その記事を見て、今泉は戦後、共助会費を負担していた事を知りました。

この事は何を意味するのかと思います。

「大和魂によって西欧の基督教を醇化する」ことを唱道し、天照大御神こそ真の神であり、その子孫である天皇を現人神と信じ告白した今泉でしたが、天皇の人間宣言によって彼の「みくに運動」は挫折します。

今泉は果たして、その挫折の中から、今1度共助会が拠って立つ福音の真理へと立ち帰ったのでしょうか。今はその経緯を知る事が出来ませんが、それでもこの記事によって分る事があります。それは、あれほどまでに激しい日本的キリスト教である「みくに運動」を主唱した今泉を、山本茂男を委員長とした共助会は再び受け入れた事です。それ故に、会費納入者として記載しました。

私は、今泉の会費納入に対し、良かったとか間違っているとかを論じるのではありません。ただ、この事実から考えさせられた事があり、それをお話しします。それは、共助会の戦争責任についてです。

1億総懺悔と言って、植民地化の朝鮮・台湾の人々をも巻き込んで戦争責任を曖昧にした日本の為政者が犯した過ちと同じ過ちを、共助会は敗戦時に犯したのではないかとも思うのです。共助会がなぜ敗戦時に戦争責任告白を成し得なかったのでしょうか。

1941年の日本基督教団創立の際の小塩力のあの透徹した眼差し( ( (注を知る私たちは、敗戦時における奥田成孝の北白川教会辞任の申し出や、山本茂男のその後の共助会挙げての平和運動への注力などによって、恐らく多くの共助会員に共通する思いとして、アジア・太平洋戦争に対する厳しい反省があったと思います。

それにも関わらず、その思いを言い表すことが出来ませんでした。同胞に対してはもとより、苦難の道を歩ませたアジアの人々に対し、そして何よりも主なる真の神に対してです。

私はここにおいて、主に在る友情の内実を形づくる交わりの真実とは何かが問われているように思います。謝罪は、他者との交わりの回復を意味します。反省は、時に自分の中だけで閉じられます。共助会にとって大切であったのは、反省を踏み台としての謝罪でした。何よりも真なる神に対して。

朝鮮・台湾・中国を始めとした、侵略し、暴虐の限りを尽くしたアジアの人々に対して。そして、過ちを自ら気づくことも出来ず、又気づかせることも出来なかった同胞に対してです。

共助会創立100年の歴史を振り返り、明日への新たな道へと踏み出そうとする今、主に在る友情とキリストの他自由独立を生きたきら星のように輝く先達の歩みの後を追いつつ、なお彼らが成す事が出来なかったアジア・太平洋戦争下に犯した私たちの過ちを認め、関わる全ての国々、人々に謝罪し、アジアの和解とキリストの平和を絶えず心に覚えて福音伝道の業に邁進したいと思います。

最後に、あと1つのことを述べます。キリストの他、自由独立についてです。

森明の師である植村正久は、1873(明治6)年5月、アメリカのオランダ改革派教会から派遣された宣教師、J. H. Ballagh(1832-1920)によって洗礼を受けました。16歳の時です。そして、バラの指導を受けて受洗した者たちと共に、その後日本最初のプロテスタント教会である一致教会を設立します。さらに、1873年から74年にかけて、東京新栄教会、神戸教会、大阪教会が相次いで設立されますが、植村はその事に触れ次のように記しています。

「(これらの教会は)皆横濱の初實教會と主義を同じくし、無宗派の精神を抱き、簡易信條の規約に基けるものなり。是これ等ら教會は、相約して日本基督教會なる名稱を用い、自いま今より我が國に外國宗派の成立を拒絶せんとの覺悟にてありたり。」(「日本基督教會と云へる名稱及び其の由来」『植村全集 第5巻 教会篇』180頁)

しかし、植村や彼らを指導したバラらの宣教師のこの決断は、後からやって来た宗派的宣教師及び1874(明治7)年アメリカから帰国した新島襄によって打ち砕かれます。

森明は、師である植村の無宗派主義の理想を知らなかったはずはありません。私は、森明の「キリストの他自由独立」は、植村の理想をも追い、さらには、「教会の無い者の教会( ( (注」である無教会の信徒をも包摂する共助会の交わりの柱の1つとなったのだ

と思います。

以上、共助会の交わりについて語りました。

私は、共助会は、神の前に、そしてキリストの亮一の前に独り立つ者が、神に、キリストに促されて、1教会1教派に止まらず、交わりの実を結ぶ小さき群れだと思います。そして、この小さき群れに託された神の御業とは、日本の地に生きる友を求め、己の生き死にの姿をもって友にキリストを紹介する事だと思っています。祈りましょう。

【注1】「眼をあげて御覧なさい、この世界史的転局に際して、西も東も流血の惨と慟哭のおもいに満ちあふれています。有史以来はじめてともいうべき世界史的な悩みであります。神の怒りはあらゆる意味での洪水をもって迫るかも知れません。ノアの頃よりも、神の絶望はもっとひどいものでありましょう。絶滅と根本的な否定が人間に向けられている。」

「私は最後に合同の成った私共の教会の前途と、複雑な国際情勢に面して血路をひらこうとする祖国のために、おもいを傾けざるをえません。合同の祝会を終えて、ある責任の地位にある人がいったそうです。自分は悲哀のラメンタティオの、祝会に座したと。心ある人は誰もそうでしたでしょう。然し今は、悲哀と戦慄のうちに神に縋すがって、願わくは今1度我らをこらえたまえ、み赦しをもって極みなき愛を教会に注がせ給え、といのり続けざるをえません。国の運命に対してもまた私共は半ば狂せんばかりに、額を土にすりつけてでも主よ憐れみによって我が国をいだき給え、導き給えと、誰か祈らずにいられましょうか。」(「昏晦のうちに動くもの」『共助』1941年9月号)

【注2】「無教会は教会の無い者の教会であり、……家の無い者の合宿所とも云ふべきもの、……壊すように見えて実は建てる者、……真正の教会は実は無教会であります。……神の造られた宇宙、天然、是が私共無教会信者の此世に於ける教会であり、説教師は神様御自身であります。……無教会これ有教会であり、教会を有たない者のみが実は1番善い教会を持つ者であります。」(「無教会論」『無教会』1901年3月創刊号)