平和を実現する人 鈴木善姫

マタイによる福音書5章9節

あちこちでの戦争の無残さをテレビや新聞を通して見ている私たちは、戦争ということが昔話や他人事ではない、そしてドラマの世界でもない私たちの現実であることを実感する日々です。

この頃はコロナ禍に自然災害も加わり、平安、平和という生活は遠い話のようです。このような状況を乗り越えるために医学、科学、政治の世界で奮闘しているようですが、ますます不安な状況になっているようで、また何が起こるのかという恐怖さえ感じているのは私一人だけではないような気がします。戦争を止め、平和をもたらすための様々な会談が開かれ、平和を求める人々の声が大きくなりますが、日々増していく悲惨な状況を伝えるニュースに心を痛める日々です。あまりにも巨大な人間の悪とそれがもたらした悲劇に人間の無力感を感じます。

異常気象による生き辛さ、原発事故による将来への不安、考えられない事故、事件、まさに暗闇がこの世を囲み、この世は終末に向かっているような感じさえします。

このような私たちの世界に平安、平和というのは、幻想に過ぎないことでしょうか。このような状態を仕方ないこととして運命のように受け入れるしかないのでしょうか。本当にこの世に真の平和はあるのでしょうか。そして、いつ訪れるのでしょうか。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と書かれている、マタイによる福音書5章9節は主イエスの山上の説教の一部分です。この説教は直接的には「弟子たち」に向かって語られていますが、弟子たちだけではなく、これは主イエスに従おうと決意した者に与えられる「服従」の道を示しているのです。主イエスの「至福の教え」とも言われ、親しまれてきました。ここでは「幸いです」という感嘆文が繰り返されています。これを正式に訳するならば、「ああ、何と祝福されていることよ」と主イエスが感嘆の声をあげておられることであるとも解釈されてきました。つまり、特に主イエスの心が込められたメッセージであるのです。

私たちはここで希望を見るのです。まず、この世において平和はあるということです。そして私たち人間によってそれが実現できるということです。では、その平和とは、どのようなものでしょうか。そして、私たち人間はどのようにして平和を実現することができるのでしょうか。

預言者イザヤは言います。(イザヤ書9章5、6節)

5

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。

6

ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」

ここには、イスラエルの捕囚の民が回復され、平和になるのは、人間の力、戦いによるのではなく、神様から与えられるということが宣言されています。「生まれた」「与えられた」「彼の肩にある」「唱えられる」とは、すでになされていることを確実に示す言葉であります。確固たる平和が与えられることは一方的な神様の御業によるものである。そして、それは、ひとりのみどりご、ひとりの男の子が与えられることで実現されることを宣言しているのです。神の民に対する熱意、神様の深い愛が示され、絶えることがない平和の約束が告げられているところです。暗闇に差し込んでくる希望の光です。

さらに預言者イザヤは言います。「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53:5)。預言者イザヤは、メシアの苦難によって、平和が与えられたということを、聖なる霊によって確信し、預言しているのです。

平和を失って喘ぎもがいている私たちに与えられる神様からの平和、その救いを預言者イザヤは先取ってみていたのです。私たちに神の子主イエスによって平和が与えられることをみていたのです。

ですから、主イエスが来られた私たちの世界にはすでに平和が与えられているということです。そして、ここで平和を実現するということは既に与えられている平和を明らかにしていく、伝えていく、宣言していくということです。

エフェソの信徒への手紙2章14―16節にこのように書かれています。「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」つまり、主イエス・キリストが平和、そのものであるということです。

それを知った使徒パウロは福音のために喜びを持って迫害と苦難を受けました。争いと憎しみに満ちたこの世界で、主イエス・キリストによらなければ、この世には真の平和がないということを悟ったのです。主イエスの福音で示された神様との平和によってのみ、人間にも真の平和への希望があることを確信していたのです。平和は主イエス・キリストを通して、既に神様が与えてくださっていることを知っていたのです。

その平和を伝えるために使徒パウロは言います。「兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます」(Ⅰコリント15:31)。使徒パウロの誇りは自分がキリストのうちに死ぬことでした。使徒パウロはキリスト・イエスのものとなった人として、肉の欲情や欲望を十字架につけてしまった人でした。悪を善で返し、敵を許し、迫害を受けながらも愛を示す人となりました。キリストによって日々死んでいなければできないことであるのです。使徒パウロはキリストと共に死ぬことで、神の力が与えられることを知っていました。自分が弱い時こそ、神の力が増していくことを知っていたのです。主と共に死ぬ人でなければ真の平和は実現できないことを知っていたのです。

平和は人間の力によって勝ち取るものではないのです。ですから、真の平和を実現する人は、この世の不義と戦争、不正、人間に悲惨をもたらすすべての悪が政治的な問題からではなく、社会、経済的な問題からでもなく、先ず人間存在の根源的な問題、つまり、罪の問題からくることを知っている人です。表面的には政治、社会経済的な問題に見えますが、根本的には神様の愛に背いた人間の罪の問題であるのです。

もちろん、社会、政治的ないろいろな面での平和に対する努力は大事です。しかし、それで真の平和が完全に実現するとは思わないことです。いや、思えないのです。神の子主イエス・キリストによる贖いがなければ、そして主と共に歩まなければ、真の平和を知ることも、成し遂げることもできないのです。それは私たち人間の歴史が証明しています。力によって抑えられ、作られた一時的な平和、安定はあるのかもしれませんが、それは、長続きしないのです。理念、思想による平和もいつかは崩れてしまうのです。それで、神の子イエスは人間に真の平和を与えるために、神と等しい身分であるのにもかかわらず、人間になってこの世に来られ、ご自身が十字架につけられて、私たち人間を罪から解放させようとしました。平和を実現する人は、私たち人間の罪の重さが神の子イエスが十字架で死ななければならないほどいかに大きな問題であり、そして、主イエスの十字架での罪の赦しがいかに大きな恵みであるかを深く悟り、心の底から受け入れ信じる人です。それで、平和を実現する人は、様々な苦難や困難の中でも主イエスの解放のメッセージ、その十字架と復活を宣べ伝える人です。人は主イエス・キリストとの出会いがなければ、真の平安と平和を知ることも、その平和を持つことも、そして平和を実現することもできないのです。

平和を実現する人は、人間の罪深さと無力さを知っている人です。そして、人間のあらゆる努力では真の平和は実現できないということを心の底から知っている人です。真の平和は、私たちに与えられる神様の力によってのみ、なされることを知っています。ですから、神様の前にへりくだって祈り求め、平和の君、主イエスに従っていくのです。福音の光に照らされて自分がいかに無力な存在であるかということを知りつつ、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人のために身代金として自分の命をささげるためにきたとおっしゃった主イエスに従う人です。主イエスがおっしゃったように神の国と義を求めながら、自分に与えられている十字架を背負って、平和の主イエスについていく人です。

私たちは主によって選ばれ、試練が多いこの世の中に生かされています。どのような苦難も私たちを倒すことはできません。どのようなものも私たちに与えられている平和を奪うことはできません。銃声、殺戮、貧困、虐待の世界で私たちは、私たちに平

和を与えるために十字架で苦しんでおられる主イエスを仰ぎ見るのです。そして、その大いなる恵みと確固たる平和を伝えていくのです。暴力と背信を受けながらも愛と赦しを示してくださった主イエスの後をついて行くのです。それこそ平和を実現する道であり、私たちは神の子と呼ばれるのです。険しいが、平和である主が共におられる幸いな祝福された者の歩みです。

主イエスの復活の勝利を確信して主に従う私たちの弱い足、小さな手を用いて、主がこの世に平和を実現させてくださいますように。このような祈りをもって新年を迎えたいものです。

(日本基督教団 海老名教会牧師)