戦後80年シリーズ

戦争と言われて   大西晴子

 共助会から「私と『あの日』」について、書いてくださいとの依頼がありましたが、1949年生まれの私にとって、終戦前後のことは分かるはずもなく困りましたが、私なりにわずかに残っている思い出として述べたいと思います。

 私の父母は戦争のことを私たち(4人兄弟)にはなぜかほとんど話さなかったのでは? という記憶があります。それでも生活体験として、新発田で生活していた3歳の頃、近所の皆さんと行ったいなご捕りの思い出があります。竹筒を装着した布袋を手に田んぼへ行き、恐る恐るやっと捕獲したいなご捕りです。それを母が調理し食した記憶は残念ながら私にはありません。きっと拒否したのでしょう。

 4歳で新潟市に居住し、小学校低学年の登下校時に、傷痍軍人さんの方が道端に座っておられるのをよく目にしました。何をしているのか分からず母に問うたことを覚えています。(数年経てもまだまだ戦争は終結してなかったなぁー)

 また、小学校6年生の頃、習っていたピアノの先生の奥様が、レッスンが終るとおやつを出してくださり、満州引揚の話をよくしてくださいました。私は満州引揚のこともまだよくわからずにお聞きしていましたが、とにかく大変であったことを、何となく理解しました。お金を毛糸で巻き、毛糸玉を沢山作成し、隠し持って帰って来たという話を、なぜかよく覚えています。手で作り方を「こうやってネ、いくつもいくつも作ったのよ」と話されました。心の中で「何故そんなことまでして」とびっくりしながら、引揚の深刻さを感じたことを覚えています。

 ある日、母に「なぜ満州から帰って来た人がいるの?」と聞いたことがあります。母は「昔、多勢の人が満州に渡ったんだよ。日本が戦争に負けて、満州に居られず日本へ帰って来たの」と説明してくれました。「ふ~ん、そうなのか」と単純な私。母はそして「私も満州へ嫁に行かないかと何回も何回もいろいろな人からお誘いを受けたけど、自分なりに満州へは絶対に行かない!」と、ことわり続けたと言いました。またもや「ふ~ん」で、終った私でした。もし母が満州へ渡っていたら私の人生の歴史も違っていたでしょう。そんな子供時代、いわゆる戦後のベビーブーム時代の私です。

 今になって思えば、理解も出来ますが、学校教育現場で戦争(敗戦)について教育を受けたことはあったかなー? くらいです。友達同士でさえ、戦争の話はしてこなかったのでは、という記憶です。

 子供の頃から、きちんと過去の戦争の過ちが教育されていたら、日本と違う世界が見えていたのかもしれません。きっと戦前の戦争への教育が大きな間違いを引き起こしたこと等(他国からの圧力もあったのか?)触れたくない思いが教育界にもあったのでしょうか。

 私達世代は戦後の日本の復興の歴史の中で、様々なことを体験して来たのではないでしょうか?

 2025年は戦後80年と、世間は改めて戦争の悲惨さを伝えていますが、悲惨さだけでなく加害者としての日本の姿をも人々に伝えて行かなければならないと思います。被害を及ぼした国々に対して、本当の許しを請う気持ちを伝えて行かなければ、また再び、戦争に手を染めることになるのでは? と危惧いたします。

 防衛費の増大も日本の為ですか? 防衛力は持てば持つほど誇示したくなるのではないでしょうか。世界を見渡しても戦争は続いています。日本は憲法9条を守り続けてほしいです。

 神様が、「この地球に必ず平和が訪れますよ」と約束してくださるのはいつだろうかと祈りながら歩む日々です。

 追記

 そろそろ終活しようと整理していたら、母の和ダンスからあるものを発見。

 「銃後生活かるた」昭和13年つくる。阿部(母の旧姓)節子・道子(母の妹)(母は大正4年生れ)と書いてありました。以前チラッと見たことはありましたが関心を示さず忘れていました。外の箱はボロボロでしたが、中のカードはとてもきれいでした。

 絵の具で描かれた絵、筆字で書かれた文章、読みガナまでふってありました。文章は自分達で考えたのか「笑顔で作るこのカルタ」。当時さかんに言われていた標語(?)もありました。

 「()かうよ ()かう大陸へ」

 さてこのカルタどうしたらいいのだろうか? 子供の頃見ていたら……

 どう感じていたのかなー と思いました。さてこのカルタ捨てる、いや捨てられない。どうするか? 目下の悩みです。  (日本基督教団新潟教会員・誌友)