父母への思い 和田 健彦
私の父は隣邦人への宣教に従われていた福井二郎・沢崎堅造の後に続くことを祈りの中に示され、1945年4月24日、福井牧師の牧する赤峰教会に、母と4歳になった私を連れて、神戸港を発ちました。父は福井牧師のもとで、学び始めるが、間もなく7月末、応召となり、母と私は父と離れ離れになりました。そして翌年母と私は9月に北朝鮮から釜山を経て、父は10月に満州から葫蘆島を経て引き揚げてきました。
1965年『熱河宣教の記録』が出版され、赤峰から一緒に引き揚げてきた沢崎良子姉の手記には、北朝鮮での冬をはさんだ厳しい避難生活が記されていました。私も風土病や栄養失調などで何度か死にかけたことなど、涙とともに読みました。また父の手記には、中国での厳しい生活の中、信仰により生き抜いていた姿が書かれていました。
私は中学生頃から、原罪、キリスト、十字架と、キリスト教が分からず、また侵略している国への伝道の意味が分からずにいましたが、次の父の文に接し、納得したことを思い出します。父は当時京都で保母を養成する聖和女子学院の教師でしたが、同僚の久山康兄に、中国に行くことについて、話したことが書かれていました。「私は他の伝道者の方と少し違うと思います。僕は支那へ行って教会の牧師になるというようなことをしたいわけではない。根本に、生きるにも死ぬにも、キリストのあがない給わんことであり、そのために、最も適当な生活をしようと思う。伝道者になるのが良ければなるし、学校の教師になることが良ければ教師に成る。こういう心持ちなんだが、これで良いのだろうか。久山兄はそれで良いと思うと言ってくれました。」(20頁)私はこれを読んで、父の渡満の意図がわかるような思いをもちました。
その後だいぶたって、『森明著作集』の一文に、私は基督教について、また父の満州への献身の思いを次のように考えるようになりました。
「一番聖書において注意しなければならない点は、すなわち人類の罪がイエスご自身の苦痛となったことである。世の罪を警告・痛撃したのでなく、ご自身からこれを苦しまれた。罪の渦巻きの中にご自身を投じられたのである。これがキリスト教である。」(81頁)
父なる神様にとっては独り児を失うことほど悲しいことはない。父は東亜において日本の犯す侵略という罪の渦巻きの中に身を投じ、生きている間に、主への応答とすることを願っていたのでは、そして教育で働くことは、国にとってとても大切な役割であると思っていたと考えるようになりました。
母は渡満前16貫あった体重が、引き揚げ後9貫台になっていたことが『北白川50年史』に載っていました。私にとっては4、5歳に体験したことが、今日に至るまで心の底に引きずっておりました。
(日本基督教団 鶴川北教会員)
