小笠原亮一先生に教えられて 佐藤良司

小笠原亮一先生が、神に召されてから今年で10年になります。私の人生を振り返って、私に影響を与えた人は2、3人いますが、小笠原亮一先生は、決定的に影響を与えた方です。小笠原先生の一言で私は牧師になりました。先生に教えて頂いて、今日の私があります。そのことについて記します。

私は会社勤めを終え、62歳になってからCコースで日本基督教団教師検定試験に合格し補教師として、その当時私の所属していた地区にある、浪岡伝道所の担任教師として赴任しました。月一回説教し、後は主任の指示通り教会での勤めを学びました。一年後、教区から別の北東地区の田名部教会担任教師に招聘を受け受諾し、2007年4月から2015年3月まで9年間補教師、正教師として奉仕させていただきました。浪岡伝道所(今は無し)1年間、田名部教会で9年間合わせて10年牧会したことになります。

会社勤めは40年ですが、その後半の35年目頃の小笠原先生との出会いが、わたしを伝道者へと踏み切らせたのです。会社勤めをしていた最初の時期は、教会へ行っていましたが、自分の会社の都合で休むのは常で、本当にこの頃の私は黙示録にある「冷たくもなく、熱くもない状態」でした。でも「これでいいのだろうか」「これではだめだ」との〝思い〟がいつもありました。そんな時小笠原先生との出会いは「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、口から吐き出そうとしている。」(黙示録3章16節)と私に迫ってきました。この黙示録3章状態から徐々にではありますが、方向が向き直されて、悔い改めの心が起きてくるのを感じるようになって行きました。

会社は私の実家であり、役員でもありましたので、多少の無理が利きますので、小笠原先生と一緒に地区や教区の講演会、修養会に行くようになりました。先生は運転免許証をお持ちでないので、私が運転して行きました。行き帰りの会話が楽しみになっていきます。先生はある地区へ行くと決まると、その地の歴史、特にキリスト教関係の建物・遺跡を調べられて立ち寄り、そのことを詳しく、わたしに話してくださるのです。回を重ねる毎に、今日はどんな発見があるのかと、楽しみになっていきました。そして私の方から弘前地方の旧跡を調べて先生をお連れするようにもなりました。

白神山の雁森岳を源流とし、五所川原市の十三湖に至る全長101・6キロメートルの岩木川は〝暴れ川〟でいつも氾濫を起こし、多くの死者を出し、農作物、特に米に壊滅的打撃を与えていましたので、江戸藩政時代の津軽藩は灌漑事業にあたりました。歴代藩主は、大雨が降らぬよう〝祈願〟したり、堤防決壊時には組単位で補修に当たらせたり、また川の流れを変えるという大規模な土木工事を行うのですが、川は元の流れに帰っていくようで、水の事故は後を絶たなかったようです。

そこでこの〝暴れ川〟を鎮めようと、神道の神主が、自分の腹に杭を打たせ、犠牲を捧げたのです。今でも毎年5月6日亡くなった神主の報恩感謝祭が行われています。岩木川の上流にその人を祭る杭止神社があります。その今の神主さんの所へ先生と一緒に出掛け、神主さんの話を聞くことができました。神主さんが言うには、先代から神主を引き継ぐ時「大水が襲って人の命を奪おうとするときは代々の先祖が誓ったように、お前も川に入り〝杭止め〟となれ」という事を誓わされたと言うのです。そして、神主は雨が降り続くと体が震えて、止まらないと言いました。

神主宅を後にして車で帰路につく時、先生は私にこう言いました。「私たちも神主さんのように死ぬ決意ができますか。私は出来ない。しかしイエス様はただ一度、私たちの罪のために十字架に死んでくださった。これで私は救いを受けていると確信しています。神主さんのように雨が降る度、体が震えることもないし、何と感謝な事でしょう。しかし雨が降り続くと自分は犠牲になるとのあの決意は私たちも見習わなければいけませんね。どうですか佐藤さん!」と、質問が飛んできました。イエス・キリストの十字架の真理が分かるようになり、実感できるようになるには、もう少し時間が必要でした。そして話は続きます。

使徒パウロがイエス憎しで、イエス・キリストが死んだ後も息をはずませながら祭司から許可を取り、今度はキリスト者を捕縛するため荒らしまわって、ダマスコへ来たとき、天からの光が彼の周りを照らし、「『サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』」(使徒言行録9:4―6)と記されています。弟子たちの捕縛に生き甲斐を感じて、荒らしまわっていたパウロに「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。と一切責めることなく、「起きて町に入れ、仕事が待っていますよ」と、全く何事もなかったように接するイエス・キリスト。今までにパウロが荒らし回ったことを一切忘れてしまったかのようなイエスの態度を小笠原先生は「この態度こそ復活の姿だ」と言います。「『許すことは忘れること』でも『許しはするが忘れない』ではパウロほどの人物なら、直ぐ見抜いて、決して使徒にはならなかったでしょう。復活のイエスは、かくも明るく、迫害もなかったようにパウロを作り上げたんです。佐藤さん! 復活とはこのような『カラッ』としたことです。起きて町に入れ、仕事が待っていますよ。」このことですと先生は言われました。この言葉も私には、すぐに分かりませんでした。キリスト教は死と罪からの解放を言いますが罪の赦しの十字架の出来事の意味と、復活して聖霊を遣わし私たちを創りあげる。この二つのことを私はこの日の先生とのお話で教えられ、繰り返し繰り返し、牧師時代もそうであり、今も噛み締めています。

さて、私は大学時代の頃、遠藤周作の『沈黙』を読み感動し、それから遠藤氏の本をよく読むようになりました。本格的には、『死海のほとり』『深い河』また『反逆』『王国への道』『宿敵』『王の挽歌』等の時代物、エッセイ集で特にキリシタン物に惹かれていきました。その惹かれる理由は、私があの時代に生きていれば、どうするだろうか、『沈黙』の「キチジロー」の様に何度も踏み絵を踏むか? それとも天正少年使節の伊東マンショの様に、「我こそローマへ赴きし伊東マンショなり」と正面から迫害に向き合うか、時代は違えど今も同じ様な状況が、私たちの周りにあるからです。そうしてキリシタン物を読んでいく内に、私のいる弘前(その当時津軽藩)にもキリシタンの人々の71名が流されてきたのを知ります。

津軽はみちのく「道の奥」、本州の最北端に位置していますので、幕府は、北の守りの要として、また未開の地の開拓のため、より多くの人々を必要としていたので、徳川家康の命により送られてきたのです。同じキリシタンでも「高山右近」の様に海外・マニラ行きの人たちもあったようですが、津軽藩二代の信のぶ枚ひらは家康の孫娘を娶り、徳川家と姻戚関係があったことも一つの理由です。もう一つの理由は、当時の津軽は農業生産人口が少なく、山林原野は多くありました。そのためキリシタンが信仰するのは構わない、但し、伝道することは許さないのが条件でした。流されて来た人たちは、京都・大阪の公家、町人たちでした。慶長19(1614)年、4月12日敦賀から出帆し、越前の海岸に沿って進み、途中暴風があったが、6月17日無事津軽に到着したと「イエズス会報」は伝えています。また、「毎日3時間ずつ祈りをしていること、食事は毎日2回、飯一皿と塩の入らぬ少量の汁。男女とも髪を切り落とす。敦賀では動物を入れる納屋に閉じ込められたこと、13歳の少年ルイスは裕福な家に育ったにも拘わらず、椀や皿洗いなどの雑用を喜んでやっている」など、事細やかに生々しく長崎にいる神父ポルロに密に手紙で伝えています。流された信徒達は流された地「津軽」で土地を開墾して行きました。そこへ身を隠して流刑囚を励ますため外国人神父達が密かにやって来ます。その1人アンジェラス神父は陸路仙台から来るのです。元和元年7月7日最初の訪問でした。流刑地津軽を「すこぶる危険で、強盗も多く、見渡す限り人煙希少、青い物の無い原野です。昼も夜も安眠できません」と書き記しています。それから4年後の元和5年、カルバリオ神父が蝦夷からやって来ます。その様子を『日本切支丹宗門史』(パジェス著)は「キリストの証し人たる証人は聖き生活を送って、じっと耐えていた。そこのある村には京都の追放者がいた。少し離れた共同の家には、大阪の追放者がおり、また他の二つの村には北国の追放者がいた。この試練の場所で、宿命の死をとげた〝ヨハネ休閑の息子3人がいた〟」とあるのを見ると、流されて4年後、早くも伝道が行われ、処刑された信徒がいたことを物語っていないだろうか。やがて「寛永元年(1624)14名のキリシタンを逮捕、続いて同2年1名火刑、10名処刑、同6年5名殉教、そしてついに同15年信73名が火刑となりました。」と同書に記されています。

秀吉から家康へと激動する情勢にあって、巧みに生き延びる小国「津軽」護身の術として政治上、幕府への絶対の従順を誓わなければならなかったのです。そのため藩は害を与えかねないキリシタンの記録を消し去り、隠してしまったのです。前の安倍政権のように、都合の悪い文書等は、廃棄したり、改ざんしたりするのは昔も今も変わらないと教えられます。こうして津軽のキリシタン達は大量の処刑後、伝道活動を止めて、その幕を閉じようとします。藩に順応し、開拓で成果をあげた者は士分に取り立てるという政策に傾くのです。あれ程、神の灯火を燃やし続けた京・大阪のキリシタン達、津軽の風土は一代限りでその炎を自ら消し他に影響を与えることは無く、風化していくのです。

さて、その一代限りで風化していったキリシタンの地はどこか、その片鱗を伝える潜入神父の手紙『見渡す限り人煙、希少、青いものもない原野高岡(弘前)の近くにある村』はどこか、郷土史家たちは色々言いますが、1人の郷土史家の説に惹かれます。それは鯵ヶ沢港(ここに着いた)から遠くない、今も「ヤソ畑」と言われる地、弘前のいわき山麓の地へ小笠原先生と行って見たのですが、今は水田に成っている処もあるが、山麓の原野はすべてが木や草で隠れてしまっています。それらしき姿は全くありません。先生はポツリと言います。「多くの人の血が流されこの地は、今は何もないが、その血は二百年後の、明治の本多庸一に受け継がれるんです」と言われたことが今でも忘れられません。先生は10年で五所川原教会を辞任し、隠退され、青森市の自宅へ移ります。私も仕事で青森市へ行く時は必ず先生のところに寄ったものです。本の多さに驚かされます。玄関先からずらり、神学書、哲学書、文学書、歴史書、仏教書。先生は言います。「伝道するには、色々な知識を知っておくことが必要です。特に日本人の思想の中心である仏教、神道は必要です。暇な時は読んでください」と初心者向けの2冊を貸してくれました。2週間後行ってみると別の2冊を貸してくれます。2ヶ月くらい経った頃でしょうか、「どうですか、少しは分かりましたか、仏教は奥が深いですね」と仏教の話を初めてしてくださいました。仏教は大きく分けて、聖道門系の「悟り」の宗派と浄土門系の「救い」の宗派があります。悟りの宗派は人間に苦しみがあるのは「我」があるから、しかし「我」は空なるものである。私がいるのは他のものによって存在させて頂いているからである。ご馳走という言葉があるが、私が頂くのは、私でない方が奔走してくださったお陰で、私のものは何一つ無い。これが「無我」で「空くう」である。「我」を「空くう」じなさい。これが悟りである。悟った人が仏になる。これが悟りの宗教、もう一つが浄土教、浄土真宗に代表されるもので釈迦の仏教に問題を投げかけています。親鸞は言います。「気魂、鋭敏な人はそれでやりなさい。私には出来ない。私は駄目です。私は別の道へ行きます。他力へ行きます。阿弥陀仏に縋る他力へ行きます。これが浄土門系の救いの宗派です。同じ仏教の中に『悟り』と『救い』と全くちがう二つがあります。同じ仏教なのに幅が広いですね」と大体このような話をされました。

先生と一緒に出かけたり、話を聞いたりしているうちに、いつしか伝道者にという思いが湧いてくるのを覚えるようになっていきました。しかし、すぐに、この思いを打ち消してしまいます。「私なんぞは駄目だ、中途半端で、自分の罪の整理もできない者、神様どうぞ私でなく他の人を遣わしてください」半年近くこの反復が繰り返されます。丁度この頃、会社が火事で全焼します。再建に向けて努力するのですが、思うような協力が得られません。ここに到って廃業することにしました。この頃、先生に初めて相談をします。先生は伝道者になりなさいと一言も言いませんでしたが「それは神様からのコールです。今のあなたの状態いかんに関わらず神の『コール』にもう一度耳を傾けてください」と言われ、揺れる心にピリオドが打たれました。

その時、60歳、牧師になるためには神学校へ行き牧師検定試験を受ける方法と、もう一つは、働きながら日本基督教団の資格を得る制度がありました。Cコースです。先生もCコースだったそうです。試験問題集を買って頂き、傾向と対策を教えて頂きます。また、ギリシャ語が必須科目で最初からでは大変だからカセットテープを買うようお金を出して頂きました。どうにか試験に合格し教師になります。それ以降は前に記した通りです。小笠原亮一先生との出会いは神の導きです。私の宝です。先生が召されてから10年になります。生前、先生が折々に触れて語った言葉が私の心に蓄えられています。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」(マタイ25:40)。私という取るに足らぬ小さき者にいつも全身全霊を傾けて下さった先生、私も他の人にそうしよう。また、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」(マタイ6:3~4)。その他多くあります。

今は隠退教師として自分の出来ることをしていこう。神の国で小笠原先生とお会いできる日、良い報告ができるよう精一杯頑張っていきます。(隠退牧師)