いじめられ体験 内坂 晃

【誌上夏期信仰修養会 証しⅡ①】

私は小学生のころからいじめられっ子であった。これは私の原体験のようなものである。理由はよくわからない。集団主義で同調圧力の強い日本社会の中にあって、周りの人々に何か異質なものを感じさせるものがあったのかもしれない。しかし仲間はずれをはじめ、いじめられた経験は私の心に大きな傷となって残った。体が小さかったこともあり、子供の時は文字通り身の危険を感じるようなこともあった。一般に子供は純真などといわれるが、私は自分の受けた経験から、そんなのは大人がそう思いたいから作り出した神話だと思ってきた。若者は理想主義だというのも、そうでない若者を腐る程知っているので、それも神話にすぎないと思っている。

しかし自分自身の青年時代を振り返ってみると、そのプラス・マイナスを含めてだが、はなはだ理想主義的であったと思う。高校時代の話を記す。私は初め寮に入った。そこの寮はいわゆる悪しき運動部的体質が濃厚な、上級生が先輩というだけで絶対的な権力を持ち、夜中に一年生を一人一人呼び出し、大勢で大声と暴力でいじめて萎縮させ、何でも自分たちのいう通りに動くロボットのようにさせる所であった。普段は寮の先生はおらず、神学生が一人、寮の監督としていたが、彼は事態の改善に動くことはなかった。

あまりにひどい現状に私はその神学生に訴えに行ったことがあったが、話を聞くだけで彼は何もしなかった。38度以上の熱があってラグビーの練習を休むと夜中に呼び出されて責められた。ここにいると体が持たないと思った私は、寮を出て農家に下宿した。ある日寮の先輩に、「お前ちょっと寮に来い」といわれ、迷ったが行かないとまた何をされるかわからないと思って出かけて行った。そこが判断ミスというか、一年生達の見ている前で殴られリンチにあった。

二年生になった時、寮ではなくクラスでのことだが、「コンパをするから参加しろ」といわれたが、私は「まだ高校生でそんなものはするものではない」と思っていたので、「自分は出ない」と断った。同じ日「物理の授業をボイコットするから、お前も参加しろ」と言われたが、私は、とんでもないことだと思い、物理教室に教科書とノートを持って行った。しかし生徒がいないので授業はできず、仕方なく私は自分のクラスの教室に戻ってきた。すると私の鞄が他の教科書やノートごとなくなっていた。担任の教師が来て、形だけ物理の授業をボイコットしたことを(叱るのではなく)注意し、その上で「お前ら、内坂の鞄を出したれ」とだけ言って職員室に戻っていった。そんなことで鞄が出てくるはずもなく、放課後夕方近くなって、トイレから、中のもの全てをひっくり返し、全てがビチョビチョに散乱した形で見つかった。担任の教師に報告に行き、彼もその状態を見たが、彼が最初に言った言葉は「俺は犯人探しはせんぞ」であった。その後、そのこととあまり関係のない「文学」の話をして、彼はその場を去った。私はビチョビチョになった教科書やノートを鞄に入れ、その鞄を持って一人下宿に帰った。私はいつも帰宅したら、小遣い帳をつけることにしていた。しかしその小遣い帳もビチョビチョに濡れていた。途端に自分はこの後どうすればいいのかとの思いにかられ、畳の上に突っ伏した。腹の底から怒りと憎しみがこみあげて来た。こんなことをした連中の首をしめつけてやりたい思いに駆られた。ふと「許せ」という声が心の内に聞こえたが、「何を言うか」と私の激情はその声をはねのけた。「汝の敵を愛せよ」という御言葉も何度か心の内をよぎったが、これも跳ねのけた。そういうことを何度か繰り返している内に、私は疲れてしまった。泣きたかったが、泣くとこんなことをした連中に負けるような気がして我慢した。そうして疲れ果てた私に、ふと「かわいそうに。お前の気持ちはよくわかっているからな」という声が聞こえた気がした。すると不思議なことに、私の激情はすうっと収まって行った。それは「許さねばならぬ、愛さねばならぬ」と私に命令するのではなく、私の悔しさも涙もすべて分かっていて下さるキリストの御声として受けとめた。翌日から新しい教科書を教師達にもらいに行ったり、出版社を探して買いに行った。ノートは友人達に借りて写させてもらった。

その内、私がまいったという様子を見せなかったからか、同じ宗教部の先輩であった端田宣彦君が、「お前、今度は乗ってきている自転車をやられるそうやぞ、自転車乗ってくるのやめたらどうや」と忠告してくれた。私も「そうしようかな」と一瞬思ったが、「ここは学校やないか。学校でこんな無法がまかり通ってすむか!」と思い、その後も登校に自転車に乗って行った。案の定自転車は盗まれた。もう担任の教師に言っても埒らちがあかないことが分かっていたので、一人校長室に行って被害を訴えた。その時校長は「みんなが和気あいあいと学校生活を送っているのに、君だけがそんな目にあうのは、君に問題があるのではないか。」と言って何もしなかった。同情して親身になってくれたのは補導部と聖書科の教師だけであった。

その後も授業のボイコットは何度かあり、生徒達が教室を出て行っても、私は一人残った。黒板には大きな文字で、「裏切り者!」などと書かれた。その内、一人の女子生徒が私と共に教室に残るようになった。それで口さがない連中が、私と彼女との仲を聞こえよがしにあれこれ言って冷やかした。むろん彼女と私の間には何もなかった。

その高校はキリスト教主義の学校だったので、毎朝礼拝があった。ある日礼拝から教室へ戻ると、またもや私の鞄がなかった。一時間目の数学の教師が私に同情して怒り「かわいそうに。お前たちは何をやっているんだ。みんなで内坂の鞄を探せ」と言った。しかし鞄は出て来ず、休み時間になり、私はトイレに行き、教室に戻ると、何と鞄が机の上にあるではないか。(端田君の証言では、自転車を盗んだ犯人の一人と思われる)S君が、「お前が教室を間違えて、隣の教室に自分の鞄を置いて礼拝に行ったらしいぞ」と言った。私は「もしそうなら、みんなの数学の時間をつぶしたんだし、二時間目が始まる時にみんなに謝る」と言った。S君は「そんなことしたら、またみんなに何を言われるかわからないし、このまま黙って知らん顔しとけ」と忠告した。しかし私は意を決して、二時間目の最初に教師に言って時間をもらって謝った。その日はちょうど私の誕生日だった。誕生日には色紙を回してみんなでお祝いの言葉を書くようなことをしていた。私に渡された色紙には、ある女生徒が「今までは悲劇の主人公でいられたのに、自分で教室を間違えたなんて、お笑い草、様になりませんね」などと書いていた。S君は「今までのことは水に流してくれ」と書いていた。私はその色紙を破り捨て、クラスのゴミ箱に捨てた。

こうしたいじめられ体験のくやしさと孤独感が、わたしを更に信仰の世界へ追いやると共に、不条理との妥協を排する力となった。正しく清く生きねばならない、そうありたいという突き上げる衝動に近いような思いを抱いていた青年時代、そういう理想主義的な思いが強ければ強いほど、それは他への批判になるとともに、より深くそうでない自分への批判ともなり、若い私は苦しんだ。理想と現実のギャップの中で、駄目な自分に打ち勝とうとして、京都の冬は寒いのだが、下宿で冷水をかぶったり、血書を書いたりした。その当時、ある日、尊敬し信頼していた教会学校の担任教師であった小林融弘先生という方に、自分の悩みを打ち明けた。その時彼は、マタイ16章24節の「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」との御言葉を示し、「この『十字架』というものの中には、『自分でも嫌になるような自分』も含まれているのではないか、そういう自分を背負いつつ我に従えとキリストは言っておられるのではないか」と言われた。それは当時の私にとっては衝撃的な心を打つ言葉であった。自分で自分を投げ出したくなる。しかしそのような自分に向かってなお、「自分の十字架を背負って我に従え」と言ってくださる方がいる。自分が自分を見限っても、なおそういう自分を見捨てないで、そういうなさけない自分という十字架を背負いつつ「我に従え」と言ってくださる方がいる。小林先生は信仰生活の基本として「よろこびから一切を始めよ」と言われた。しかしそれは、この「十字架を負う」ということと切り離されてならないのだと思う。

三年生の冬、期末試験の始まる日、再び自転車で登校していた私は、走ってくるバスにぶつかり救急車で病院に運ばれた。奇跡的に腕の複雑骨折だけで助かった。校長が見舞いに来て、母に「彼は真面目な生徒ですので、試験は見込み点をつけてもらいますので御心配ないように」などと言った。

卒業して、確かあれは二ヵ月と経っていなかった頃だと思う。共にクラシック音楽が好きということで唯一親しくしていた友人から電話がかかってきた。その時自分が、他に、二、三人の友人を除いては、担任の教師も含めて同じクラスであった者達の名前が、すっかり頭から消えてしまっていることに気付いた。人間の記憶の不思議さを感じた。

私のいた下宿からは、比叡山がよく見えた。後年、京都に行って比叡山の姿を見ると嫌な気がした。今もって何となく京都は好きになれない。

高校の図書館は充実していた。当時深い感銘をもって読み、大きな影響を受けたものとして『追想集内村鑑三先生』、南原繁著『学問 教養 信仰』、矢内原忠雄著『内村鑑三と共に』、山田文夫編『わが師を語る』、ドストエフスキー著『カラマゾフの兄弟』等がある。特に『カラマゾフの兄弟』はのめり込むようにして読んだ。大学に入学する直前の1965年3月に、大阪での内村鑑三記念講演会で、初めて高橋三郎先生と出会った。その時のことを記した一文があるので、旧稿の一部を転載することをお許しいただきたい。

『十字架の言』との出会い

私が「『十字架の言』第一巻第一号」を見たのは、1965年3月、大阪での内村鑑三記念講演会においてであった。その時先生は「日本の天職」と題してお話なさったのであったが、私は教会の礼拝をすませた後でかけつけて遅れて会場についた。そのため先生のお話の半分以上が過ぎていたように思う。それでも、壇上でお話しなさる先生の端正なお姿と、よどみない話しぶりに心を引かれて、帰り際に『十字架の言葉』誌を一部買い求めたのであった。

その時私は高校を卒業して大学に入る間の春休みであった。幼い頃から教会生活をずっと熱心に続けてきた私が、内村鑑三記念講演会なるものに、無教会の集会に参加した、これが初めてであった。その頃しきりに内村鑑三や無教会主義を口にし、教会の人々から、「内坂君は無教会主義になった」などと多少まゆをしかめて言われていた私に、ある人が内村鑑三記念講演会があることを当日教えてくれて、急いでかけつけたのであった。読書記録のノートをみても、その当時が一番内村鑑三(教文館版『内村鑑三全集』)、南原繁、矢内原忠雄といった諸先生の著作に夢中になっていた時であった。

「『十字架の言』第一巻第一号」を読んだとき、不遜かつ不敏な私は、それで特に強い感銘を受けたということはなく、「購読してみてもいいな」くらいのつもりで申し込んだ。その私が『十字架の言』を他の雑誌や本とは違う特別のものと意識するようになったのは、『十字架の言』第一巻第五号の「悲しむ者」と題する一文を読んだ時からである。これを読んだ時、私の心の中で何かがくずれてゆくような思いがした。この一文になぜあれほど強い衝撃を受けたのか。思うにそれは、私のいじめられっ子としての経験に根ざしているように思う。

小学校時代から「変わってる子」として、仲間はずれやいじめ(特にNHKの児童劇団でのいじめは、まことに陰湿なものであった)に会うことの多かった私は、高校時代になって、まるで小説にでもしたいような、リンチを含んだ悪質ないじめの数々にあった。そんな私の心の中には、押さえ難い憤りのようなものが、底の方で渦まいていた。その私に先生は「悲しむ者は、怒る者とは違う。悲しむ者の心にこそ、イエスの慰めは雨のようにしみ通るのだ。この慰めこそ、たくましい前進への勇気と人を赦す愛を与えるのだ」と、この一文を通して語りかけて下さった。私は、初めて「福音の慰め」が如何なるものかを教えられた気がした。

最後に一言、私の大学時代は、学生運動が盛んであった時代である。私も政治、社会的問題には大いに関心を抱いていたが、家で友人達と「マルクス主義とキリスト教」などの勉強会はしたが、学生運動には距離を置いた。いじめられ体験(多くの人は傍観者であった)から集団行動というものに、ある不信感というものをぬぐえずにいたからである。私は「神の前に一人立つ良心」を強調する内村鑑三に引かれていった。(以上、船本弘毅編『希望のみなもと―わたしを支えた聖書の言葉』の一文に加筆)

【参考資料】『十字架の言』第一巻第五号 主筆 高橋三郎(1965年5月)

悲しむ者

この世の営みに巻き込まれて、しみじみと胸に抱く思いは、悲しみであることが多い。この世の営みとは、人と人が関わりあって生きる営みである。そして、相互信頼の失われている冷ややかな社会に住むとき、あるいは、人の無責任なふるまいによって共同生活の営みが破綻するとき、われわれの心から平和がうばいさられる。そればかりではない。いかにしばしば、憤激に堪えない怒りや残虐な行為が、この世に横行していることであろうか。この地球の上には、戦争とそれに伴うあらゆる暴虐すらも、なお終わりそうな気配はない。かくてわれらの心は、個人としての生活の場においても、公の場に立ってみても、平和のない怒りと焦燥の中にしばしば投げ込まれる。

しかしイエスは言い給うた、「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」と(マタイ五4)。この言葉は、やるせない歎きと憤りの中にある者にとっては、冷ややかな傍観者の声、さとりすました者の教訓としか聞こえないことが、あるかもしれない。しかし、イエスの真意は、もちろんそうではなかった。十字架の上に血を流してまでも、われらの救いを全うしようとされた方の御言葉が、冷たい傍観者の声であろうはずがない。しかしそれでは、この御言葉の中にこもる「慰め」は、いかにしてわれらの心に届くのであろうか?

この問いに対する私の答はこうである。「悲しむ者」は「怒る者」とは違う。怒るということは、受けた仕打ちに反抗し、これをはね返そうとする者、これを受けることを拒否する者の態度である。そして、外から見ると、これは勇ましい態度、みずから自分の運命を切り開いて行く者の業というふうに見えるかもしれない。だが、怒る者の心には、激情があっても平和がない。そしてしばしば、この激情の焔は、みずからわが身を焼き滅ぼすことがある。

しかし、一転して十字架の主を静かに仰ぐとき、われわれはわが身にふりかかったすべての理不尽な扱いの背後に、見えざる神の御手を感ずることができはすまいか。そして、その神の御手は、善と愛そのものであることを、信じることができはすまいか。いやそうやすやすと信じることができない場合の多いことも、私はよく知っている。しかし、信ずるということは、納得出来るということではないのだ。信ずるとは、にもかかわらず神は愛なりと信ずべく決意する意志的行為である。

かくして天を仰ぐわれらの心に御霊が注がれるとき、憤激に燃えていた心の怒りは融けて、われわれは『悲しむ者』となる。怒りとは、反抗の所産であった。しかし、不可解きわまる神の御心の前にわが首(こうべ)をたれ、一切の反抗を放棄して、与えられた杯を飲み乾すとき、怒りは悲しみに変わるのである。そして、この悲しみの中に、イエスの慰めが雨のようにしみ渡る。彼もまた悲しみの人であった。その御胸にわが歎きを託し、わが悲しみを訴えることによって、新しい平和がわが心に臨むのである。

そしてこれは、弱々しい諦めや自己欺瞞とは違う。イエスの慰めと平和に満たされることによって、いかにたくましい前進への勇気と、人を赦す愛が与えられるか、生ける事実それ自身が証明するであろう。           

(聖天聖書集会 牧師)