証し

この私を捕まえていてください 三島亮

【早天礼拝】
おはようございます。昨晩の自己紹介でも触れましたが、私は山形県にあります基督教独立学園高等学校の教師をしています。3年前から教頭という役職に就きました。共助会の集いに参加するのは今回が3回目です。1回目は2019年10月に東京で行われた「共助会の創立100周年記念シンポジウム」でした。「教育」をテーマにしたその会で私は『何が人を人格にするのか ― 今、教育の担い手に求められていること―』というテーマで発題を任されました。2回目は同じく2020年1月に行われた100周年シンポジウムの「信仰」、「伝道」をテーマとした会への参加でした。この修養会への参加は今回が初めてです。

私は今年の3月まで独立学園の男子寮で舎監を18年間務めていました。初めの5年間は独身で生徒と同じフロアに住み、その後の13年間は結婚して夫婦で、最後の4年間は子供も生まれて家族で舎監室に住む形でした。教頭になって3年目ですので昨年、一昨年の2年間は舎監と教頭を兼務する形でしたが、この4月からは完全に寮を離れ、敷地内の職員住宅に住まわせてもらっています。18年間、生徒に一番近い場所で生活を共にし続けてきた私にとって、舎監を退くということは全く違う職場へ就職するような感覚でした。これまでの18年間、舎監の他に園芸部(畑で野菜を育てる部)の顧問や体育の授業、またホームルーム担任も何度か経験させてもらいました。その他にも生徒とよく登山に出掛けたりと、とにかく生徒に近いところにいました。それがこの春からは教頭と体育の授業だけです。教頭になってからの2年ちょっと、特に完全に現場から離れた4月からのこの数か月間はしんどい日々が続いています。教育現場にいながら、どれだけ具体的に生徒のことを考えている時間があるだろうかと考えてみた時に本当に少ないのです。もちろん個別の関りはありますが、生徒と直接関わる時間は圧倒的に減りました。自分が今担っている仕事も間接的には生徒と繋がっていることですし、大切な仕事だということは理解していますが、実際に私が今多くの時間を割いているのは学校生活が滞りなく回っていくために様々な調整をしたり、外部との対応をしたりと生徒のことを直に感じられる時間が本当に少ないのです。歴代の先生方が担ってきてくれたからこそ現在の独立学園があるわけで、私が次のステージへ進まなければならないことは自覚していますが、何よりも毎日喜びを感じられていない自分がとても辛いです。

そんな中でこの修養会の案内をいただき、またこの様にして礼拝の場を与えていただいたことで、自分と向き合う機会が与えられたと思っています。今日は働く場において立場が変わった今、私が感じていることをお話ししようと思います。正直、カッコ悪いような内容かもしれません。もしかしたら普通は思っていてもグッとこらえるような内容なのかもしれません。今朝起きて、原稿を読み返してみてこんなことを語ってもよいのだろうかと最後まで悩みましたが、できるだけ今の自分を正直に飾らずにお話ししたいと思い、準備してきたままにお話しさせてもらいます。テーマは「愛」です。

今年の3月、18年間の舎監生活を終える節目の時に、この18年間を振り返って何か言葉にしてみたいという思いから、『共に生きる』と題して文章を書きました。豪雪地帯(2~3mの積雪)にある独立学園の冬、特に毎日の除雪作業を通して私が見てきたこと、感じてきたこと、また問われたことや考えたことを言葉にしたものです。ある人から「三島さん、除雪で1冊本を書けるんじゃないですか」と冗談で言われた言葉を真に受けて書いた文章です。この文章を100周年シンポジュウムでお世話になった飯島さんや石川さんにも読んでもらいたいと思いお送りしたのが、今回お誘いいただいたことにも繋がります。この文章を書いた時も、ただただその時の自分自身の事実を飾らず、

正直に言葉にしたいという思いでした。あの時にしか出てこなかった言葉であり、あの時だから出てきた言葉たちです。その意味で私にとっては価値ある言葉たちです。その中で私は生意気にも〝愛〟についてこんなことを書きました。

「『愛』とは何か。『愛』とは自分が持っているものを人に与えたり、与えなかったりすることだ。自分が持っているもの……お金、物、体力、時間、アイディア……人それぞれ違うだろう。また与えることだけが『愛』ではない。時によって、また相手によっては与えないことの方が『愛』になることもある。幼児と大人とを同じには考えられない。幼児にとって『愛』であることが、必ずしも大人にとっても『愛』になるとは限らないからだ。それはただの『甘やかし』になるかもしれない。」

今回は自分の発したこの言葉に〝今の私〟で改めて向き合ってみました。

① 人を愛せない自分

ここ1、2年眠れない日が続くことがたまにあります。これまで眠れないなんてことはなかったので、自分でも信じられないです。布団の中で眠りに入るまでのちょっとした静寂。その日一日のことが思い出され、自分の失敗を嘆いたり、あれもやらなければ、これもやらなければと頭がいっぱいになったりすることもあれば、「こんなにやっているのに何でわかってくれないんだ」とか「なんであんなこと言われなければならないんだ」と人に対する不満で怒りが満ちたりすることもあります。このような負の感情でかき乱される夜は本当に辛いです。

ある夜、怒りで満ちていた私はどうすることもできず、ふと祈ってみようと思ったのです。自分でもなぜそのような言葉が出てきたのかわかりませんが、「愛せません。僕は人を愛せません。」という言葉でした。だからどうしてほしいという願いがあるわけでも、またその自分を悔いて謝るわけでもなく、ただその事実だけを聞いてほしかったのかもしれません。隣には妻と子供が寝ていたので必死に声を押し殺して泣きました。涙が止まりませんでした。でも不思議と心が穏やかになったのです。

偉そうに「愛」とは何かなんて語っているくらいですから、自分は「愛」とは何かをわかっていて、私は人を愛せる人間だと思っていました。でも違いました。私は人を愛せない。自分の都合よく愛することはできるかもしれません。自分のタイミングや自分のその時の調子で人を大事にすることはできるかもしれません。自分に余裕のある時には人のことを優先に考えられるかもしれません。しかし私にできるのはギリギリそこまでなのだという事実に向き合わされました。

私は自分を攻撃してくる人を愛せません。あからさまな攻撃でなくても、私に対して不満を抱いているであろう相手を愛せません。また忙しい時や自分がいっぱいいっぱいになっている時には人よりも自分を優先させます。愛したい、理解したいと言いながら、嫌なやり方で相手を攻撃し、否定します。相手を否定する形でしか自分を肯定できない自分を見せられました。人を愛せないという自分の事実はうれしくはないけれども、この事実を認めた時に不思議と楽になり、眠りにつくことができました。

② 利己愛

初めに、「実際に私が今多くの時間を割いているのは学校生活が滞りなく回っていくために様々な調整をしたり、外部の対応をしたり……」と話しましたが、それらを私は完璧にやろうとします。当然完璧などありえないのですが、失敗してはいけない、間違ってはいけないというプレッシャーを感じながらの毎日です。例えば計画的に段取りよく整理して、ミスがないように予め想定できる事柄は想定して準備をしたり、できるだけ色々な現場に顔を出して声をかけ、また手伝ったりします。もちろん主観ですので、客観的に見れば十分にできていないかもしれませんが、少なくともその意識でいるわけです。問題の本質はその姿勢ではなく、私は何のために、誰のために完璧であろうとしているのかということです。それは結局、人に対する〝恐れ〟から出ているということが見えてきました。人から突っ込まれたくない自分、自分に対する不満を聞きたくない自分、〝こっちも見えてますよ、ちゃんと気にかけてますからね〟とアピールをする自分です。人に対する〝恐れ〟と言いましたが、これは「利己愛」と言った方が正確かもしれません。〝恐れ〟というと自分を恐れさせてくる対象、自分を脅かしてくる対象の側に責任を持たせようとしている自分に気が付きます。そうではなく私はただただ自分が人から突っ込まれたくない、傷つきたくない、あるいは〝できる人〟と思われたいという〝利己愛〟から自分の行動が出発しているように思うのです。これは自分を愛するとか、自己愛というのとは違います。それこそ自分に対する〝甘やかし〟かもしれません。聖書に「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とありますが、これが自分に対する愛なのか甘やかしなのかを区別できなければ、隣人を愛することもできないのだと思います。人に対する甘やかしは、結局は自分に対する甘やかしなのだと思います。自分を愛せなければ人を愛せないとは、本当にその通りだと思います。

③ 私は本当に人を愛したいのか、理解したいのか

これまでお話ししてきた通り〝利己愛〟つまり自分が人から突っ込まれたくない、傷つきたくない、あるいは「できる人」と思われたいという思いから、あっちに声をかけ、こっちの手伝いをし、という自分は本当に熱心に人の声に耳を傾けてこられたのか。その人の働きを理解しようとしてきたのか。これもまた自分のタイミングや都合では耳を傾けてこられたかもしれません。自分の許容できる範囲では理解してこられたかもしれません。互いに聞き合うこと。これは教職員関係のことです。昨日、川田先生が仰ったように教職員一人ひとりが自分の在り方を自問しなければならない、自分たちの関係性を問わなければならない。そう思います。

心の奥底の本心をごまかしなく見た時、私は、本当は人の声を聞きたくない、人のことを理解したくないのかもしれません。聞いてしまったら、知ってしまったら、理解してしまったら、自分がやらなければならないことが増えるかもしれない。聞いただけでは済まなくなる。何か行動を起こさなければならなくなる。そう思ったら聞きたくないし、理解したくないというのが本心かもしれません。

そう思う一方でやはり人のことを分かりたいという願いも私の中に確かにあります。これが、今私が一番しなければならないことなのかもしれないという気づきが与えられました。これまでは現場、生徒に近いところにいて寄り添い、自分の実感を頼って色々なことを提案し、問題提起し、課題に向き合ってきました。しかし今はその実感を掴める場面が減ったのです。だとしたら私の方から意識的に生徒に近づいていかなければならないし、生徒のそばで働く職員の実感に耳を傾けなければならないのだと思います。それぞれの役割を担っている職員、一人ひとり異なった実感から発せられる提案や問題提起や課題に耳を傾けなければならないのだと思います。これは先に述べたように自分の心内を見れば簡単な課題ではありませんが努力したいです。これは挑戦です。

私は2019年の共助会シンポジウムの発題の最後を次のように締めくくりました。「神さまによって与えられた一人一人の命の為にこの学校を守りたい。神さまが一人一人に与えてくださっている、まだ見えない賜物を引き出し合い、生かし合う為にこの学校を守りたい。完璧でない私が、できない私が、そのままの私を苦闘しながら生きることしかできないのだと思います。そうやって私という人格を獲得していくのだと思います。」

この願いの実現のために自分が今すべき努力は人の声に耳を傾けること、理解しようとすることなのかもしれません。

同時にやはり私自身も自分のことを聞いてほしい、わかってほしいと思うわけです。誰にわかってもらいたいのか、誰だったら本当にわかってくれるのか。マタイ20章29~34節にあるように「私を憐れんでください」と祈れるか。私は自分の辛さを勝手に過小評価したり、人の辛さと比較して大したことないと我慢してみたり、カッコつけてみたり、あるいは祈ってどうなるのかという思いになったりします。もっと素直でありたいです。

昨日の講演で角田先生が「キリストに留まっていればいい、繋がっていればいい。」とお話しされましたが、私にはそのこと自体が大きな課題です。離れようとする私の祈りは「どうか捕まえておいてください」という祈りです。

今回、修養会へ参加したのは私の弱さを知ってほしかった。そして皆さんと強さではなく弱さでつながりたかったからです。これまで私が参加してきた共助会の集いを通して、それができると確信して、今回参加させてもらいました。残り2日間よろしくお願いいたします。

礼拝後にたくさんの方から応答をもらいました。その中に「この場で直接お話を聞けてよかった。活字になってしまったら、あの間や絞り出すように発せられた言葉や、涙は伝わらない」という応答をもらいました。私もこの3日間のプログラムを通して、直接人と人とが顔を合わせて対話すること、同じ空間を共にすることの大切さを強く感じました。誰でも弱さを持っていて、その弱さを共有したいと思っている。わかってほしいと思っている。しかしどこかで躊躇する自分がいる。その様な中で、自分が開いただけ人は開いてくれるということも実感しました。皆さんがなんとか振り絞って声に出した一つ一つの言葉に触れられたことに感謝しています。「自分の言葉にならない言葉が希望になるかもしれない」今回私が強く励まされた言葉です。

(基督教独立学園高等学校教頭)