ひろば

早天礼拝Ⅱ「エレミヤの生き方にふれて」K.H.

私はここ数年、毎週月曜日に朝の祈りの会の時を持ち、仲間と共にエレミヤ書を平均10節ずつ読んできました。

なぜエレミヤ書かというと、その前に湯田さん主催でイザヤ書の祈りの会があったので、「イザヤの次はエレミヤでしょ」と単純に考えたのと、エレミヤ書はとっつきにくいけれど、とても大切な書物なのだろうという予感があったので、一人ではなく仲間と一緒に読みたいと思ったからです。人間として率直に生きるとはどのようなことなのかをエレミヤの言葉と行動から学んでいます。エレミヤ書には、エレミヤが苦しんでいる描写が何度も出てきます。人々からの非難や嘲り、迫害、味方の裏切り、孤独。いつの時代にも変わらずに辛いこととして挙げられる事柄です。エレミヤは傷つき、悲しみ、憤りました。彼は言います。「わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。なぜ、私の痛みはやむことなくわたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り当てにならない流れのようになられました。」(エレミヤ15:17、18)その言葉に対して、神は、「あなたが帰ろうとするならわたしのもとに帰らせわたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず熟慮して語るならわたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。」(エレミヤ15:19)と答えました。

神の返事は、エレミヤを慰めるものというよりも、彼をより預言者として熟練させるような教育的なものでした。神は、彼が孤独で苦しんでいることを知りつつ、人々の元へ彼を復帰させて、関係性を回復させるという手段はとりませんでした。むしろ、神の真実によって立つ彼の元に人々が集まるという当時のエレミヤの現実からは考えられないような別次元のことを言いました。エレミヤの苦しみに対して、「最終的にはあなたの孤独は解消される」という神の約束だと読むこともできるかもしれませんが、どこか違う響きのようにも感じます。

結局、エレミヤの悩みは解決されたのでしょうか。

どうやらそうではなさそうです。エレミヤはその後も預言をしますが、エレミヤ書の終わりに至るまで、その言葉は人々から非難されています。

預言者としての晩年、バビロン捕囚の後、国に残った人々がバビロンの王を恐れてエジプトに逃れようとしました。神は、エジプト行きの計画を良しとはしませんでした。エレミヤは預言しました。「エジプトへ行って寄留しようと決意している者はすべて剣、飢饉、疫病で死ぬ。」(エレミヤ42:17)しかし、その言葉は受け入れられず、人々は「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。」(エレミヤ43:2)と言いました。人々と共に彼もエジプトに行きました。

結局のところ、エレミヤは人々からの非難や嘲りを避けることはできず、神もまた、人々の意に沿わない預言を彼に授けることで、彼が人々から疎外される原因を作り続けました。エレミヤの時代、ユダ王国は、対外的には戦争し、国内でも正義や真実がありませんでした。その時代を生きる預言者にとって、神と人々を愛するのであれば、人々が聞きたくないような正義や真実を繰り返し語り、彼らと敵対するほかなかったのだと思います。神を愛しながら、人々と平和に暮らすという選択肢がエレミヤになかったのは、本当に残念なことです。

苦しみつつも、エレミヤは結局は預言者として生きていくことを自ら選びます。神と共にいることをこそ何よりの喜びとします。彼は言います。「あなたの御言葉が見いだされたときわたしはそれをむさぼり食べました、あなたの御言葉は、わたしのものとなりわたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です。」(エレミヤ15:16)

エレミヤの神に対する信頼は、「信頼」という言葉から通常連想されるあたたかいものというよりも、それがなくては生きることができないような切実なものです。依存症の人にとっての依存対象に近いように感じます。同時に、彼には狂信的なところはなく、神からのマインドコントロールもありません。自分でその生き方を選んだと同時に、そのように生きざるを得ない自分自身をよく見つめて、知っています。エレミヤ書を読んで、そのような彼の正直さもとても印象に残りました。

今もまた、外的な状況は当時に似ています。正義や真実がどこにあるのだろうと思うような出来事が、身近な所にも遠くにもあります。

エレミヤは預言者として生きました。私は、今を生きているものとして、どのように生きていきたいのだろう、何を選んでいきたいのだろう、また、何ができて、何ができないのだろうと考えます。

思い返せば、就職してチームで仕事をするようになって、また、結婚して他者と生活を共にしていく中で、自身のできること、できないことが否応なしに浮かび上がってきました。

向き不向きの実感は、大きな発見でもありました。向いていないことは、訓練によってある程度できるようになることもあるけれど、人並みにできるようにと努力しても、その過程で体調を崩すということも経験しました。苦手なことや疲れることはほどほどに、毎日しっかり食べて眠って、忙しい平日にも好きなことをし自分なりに楽しい時間を過ごしていくということが、私にとっては生きることを肯定するために必要だということがよくわかりました。

今も、日常で生じるストレスや疲労とどのように対応していくのが良いかを日々試行錯誤しています。エレミヤは彼なりに、あの時代、場所において、自ら選べることは選び、選べないことはその流れに乗って、生きていきました。同じように、私もこの時代、場所において、選べることは選び、選べないことはしょうがなく受け入れたり、ジタバタしたりしながら生きています。エレミヤほどの苦しみはないけれど、やはり傷ついたり、苦しんだり、憤ったりすることもあります。

私がこれまでに選んだ事柄の中で、人生にじわじわとゆっくりかつ大きな影響を与えたのはキリスト教徒になったことだと思います。小学生、中学生と成長していく中で、この世界で生きていくのは、恐ろしいことだ、と思いました。現実の厳しさと折り合いをつけていくにはどうすれば良いのだろうと考えて、 キリストの方に向かいました。そして、もしキリストの愛がないならば、生きていくことはとても辛く苦しいことだと思いま
した。キリストの愛があるという前提で生きていきたい、と思って洗礼を受けたいという願いを持ちました。

そのようにキリスト教徒になりましたが、キリストの愛の貴重さをよく忘れてしまいます。「キリストにはかえられません。世のなにものも。」という讃美歌の歌詞があります(讃美歌 21 522 )。

確かにこの歌詞のとおりだと思いつつも、現実はそうシンプルではありません。私たちは生活し、社会生活を営む中で、多くのものを必要とします。常識、TPOをわきまえた服装、ご飯の準備、人によっては自動車、税金の支払、携帯電話など、必要なものやことはたくさんあります。一つ一つに時間と心を使います。キリストの愛を受け取る心が残っていないくらい多忙なこともあります。

キリスト以上に他のものに引き寄せられる私たちの現実があるからこそ、上述の歌詞のように歌われているとも思います。なにものにも代えられなくらい大切なものなのに、軽んじてしまう愚かな人間の姿は自身を省みたときにあまりにも身近です。

大切なものは失ってから気づくとはよく言います。それは本当のことだと思います。健康、友人、日常などは失ってから、その大切さを噛み締めます。しかし幸いなことに、神は違います。神は失われるような存在ではありません。再度、神に向かうことが認められているようです。立ち返る機会が与えられていることは、ありがたいことです。

私はエレミヤのように、神に捉えられてそこから逃げ出せないという実感を持つに至っていません。その気になれば、神なしで日常生活を送れてしまうと思っています。最近は平日が多忙で、休日は疲れを癒すためにのんびり過ごし、教会は朝起きられて体力があれば行くという日々を送っています。今の私にとって第一に必要なことは、心身の休養と、頭を空っぽにしてゆっくりする時間のようです。エレミヤとは優先順位が違うことが残念ですが、できるだけ自分に正直に生活をしていきたいです。そして、可能であれば、神の元に留まって、神にとって正しいもの、善いこと、尊いことを大切にしたいと思っています。

(日本基督教団松本東教会出席、会社員)