風と傲慢の間で 江川裕士
修養会では、参加者から「呻き合う(人間)関係」や「本音」といった言葉を聞いた時、自分の腹部の緊張が解け、下方から届く風圧の感覚を思い出した気がしました。もし風圧をそのまま喉に通すことができたなら、僕の言葉や選びはどこへ伸びて行くのだろうと思いました。感覚はすぐ消えます。僕が受け取った課題は、僕が下方からの風圧を感じる人間でいられる実存的条件を、その啓示を祈りつつ、求めることです。僕がこの課題を抱え、修養会で隣席したのは、カトリックからプロテスタントに所属を改めた方でした。この人は、ミサで唱える祈祷文ではなく「自分の言葉で祈りたい」願いを抱えて、転会したそうです。僕は同じ道を辿らないと思います。去年からカトリック・聖公会の友たちと生活するにつけ、むしろ定型文から祈祷生活の「型」を学べて「いい感じ」がしているからです。特に僕が感謝しているのは、留まる場所のそれぞれで他者を傾聴・指導可能な個人面談相手に恵まれ、彼らに僕の問題を聞いてもらった上で、聖句や祈祷文を自己化し実践する例を見せてもらえていることです。ただ、そこからは未だ、「呻き合う関係」や「本音」の根底は開けていません。押田成人は、超教派運動のテゼのロジェでさえ西洋中心の傲慢を抜けていない、テゼにも未来の現実的ビジョンがないと批判しました。ただ、西洋に枯れぬ泉はないという呻きはロジェの本心であったと報告しています(『孕みと音』)。北白川から伝わったクリスマス祝会の具体的報告は、僕の傲慢を折りました。イエスの背中とはそのようなものか、と思いました。僕はそんな「底抜け」の共同生活の泉を、恐れつつ、探しています。どんな「勉強したいな」なら、この泉に添えられるだろうか。
(ストラスブール大学留学生)