巻頭言

希望は、神から与えられる。 飯島 信

「荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。」(イザヤ書35章6節)

住み始めた小高(おだか)を知りたい。それだけの想いで、伝道所で二つの集まりを始めた。昼の部の「小高への想いを語る集い」と、夜の部の「小高を愛し、小高を語る自由人の集い」である。昼の部2回目となる11月26日(土)、二人の方の話しを聞いた。地域の住民活動の担い手である小高区行政区長連合会会長のAさんと、相馬藩菩提寺として知られる同慶寺住職のBさんである。原発より20㎞圏内にあり、全住民に避難命令が出された小高町(当時)の様子をお二人は語られた。テレビや新聞ではなく、目の前にいる経験者が語られる言葉を、ただ聴き続けた。集会の終わりに、一言の応答をと司会者から求められ、マイクを握ったものの、語る言葉がなかった。Aさんは、想像を絶する混乱の中で、自分の家族のことだけではなく、行政区の責任者として他の住民の安否の確認に追われる一方、御自身がんの手術を受け、お連れ合いは心臓の手術を受け、実母を亡くされていた。Bさんは、妻や幼い4人の子どもを抱えての避難の中で、他の避難者等のために車を走らせた走行距離は数万㎞に及んだ。

まず3年、小高・浪江に住み続けること、その中で、ほんのわずかでもお二人に応答出来る言葉が与えられるのであろう。

基督教共助会。104年の歴史と先達らの歩みに思いを馳せる。

2023年のこの年、私たちの立つべき拠り所は、さらに厳しく問われて行く。原発事故によってあれほどの経験をしながら、世論は原発再稼働に傾き始め、敗戦後の焼け跡のただ中で、過ちは繰り返せぬと誓ったにもかかわらず、軍事予算の膨張は歯止めを失いつつある。

しかし、私たちの進む道は明らかである。地球の自然を守り抜き、絶対非戦と非暴力を堅持し、祈りに導かれた賢明なる判断のもとに、傍観者となることなく、見張り役として現実に踏み入る者となることである。

新しい世代の、明日を導く確かな足音が聞こえる。彼らより少し先を生きて来た者として、継承すべき事ども、撰び、分かつべき事どもを提示する責任をより身近に覚え始めている。

一切の希望は、神により与えられる。

今日一日、神のなせる御業を覚え、御心に適う者として生きることを祈る。

(日本基督教団 小高伝道所・浪江伝道所牧師)