聖書を学ぶ、喜びの日々―マタイ福音書五章三節、日本語訳を考える― 鈴木孝二

はじめに

映画「ベン・ハー」でのイエスの姿、行動を忘れない。なかでも、後半部「山上の説教」シーンは、感動的であった。 そして、二〇〇〇年と二〇一三年、イスラエルを訪問し、ガ リラヤ湖畔に立ち、「山上の説教教会」とその周辺の丘を歩け たことは幸いであった。さらに今、近くの敬和学園大学で科 目等履修生(聴講生)として「新約聖書の世界」(山田耕太学長) を学んでいる。聖書を読み、学ぶことの喜びを体感している。

その時のレポートの一端を紹介したい。

一 マタイ福音書五章三節、各種日本語訳について  

(1)翻訳委員会、聖書協会訳等より―共同性のもとでの 翻訳である。
 
①明治元訳(一八八〇年)  
心の貧しき者は福さいはひなり天国は即すなはち其そ の人ひとの有ものなれば也なり。  
※聖書翻訳の出発、原点となり、名訳の誉れが高い。

② 大正改訳(一九一七年)  
幸さいはひ福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。
※改訳への取り組みだったが、「新約聖書」のみで終わった。  

①と②で文語訳聖書として今も愛読者がいる。私もその一 人である。  

③ 口語訳(一九五四年)  
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。  
※戦後、口語訳聖書として、多くの人々に読まれた。しか し日本語表現としての評価が分かれていた。  

④ 新改訳(一九七〇年)  
心の貧しい者は幸いです。天の御み 国くにはその人のものだからです。  
※日本聖書刊行会が出版。福音派教会で多く使用。私の所 属教会でも使っている。現在改訂第三版まで訂正している。

⑤ 新共同訳(一九八七年)  
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。  
※共同訳の全面改訂で、多くの教会、キリスト教学校など で使用されている。
プロテスタントとカトリックの共同によ る基本聖書となっている。これらに対して、なお注目すべき 訳書が登場してきた。

⑥ 岩波訳(二〇〇四年)  
幸いだ、乞食の心を持つ者たち、天の王国は、その彼らのものであるから。  
※新約聖書翻訳委員会が出版。新約学者荒井献のグループ による翻訳である。初め分冊であったが一冊にまとまった。 各書の翻訳者名を記して、責任の所在を明確にしている。

⑦ フランシスコ会訳(二〇一三年)  
自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである。  
※カトリック、フランシスコ会聖書研究所による出版。

長く分冊出版してきたものを一冊にまとめた。本文中での 地図や注記など、とても参考になる。「原文校訂による口語訳」 と記すように、入念である。  
以上共同性のもとでの翻訳、これらは時間をかけて検討さ れた結果の成果である。その中心は、明治期より今日に至る まで「心の貧しい人たち」と「心の」という訳で日本人に定 着して来たと考えられる。  
これに対して、次の個人訳では、それでは不十分、意味が 分かりにくいという形で、挑戦するように登場する。

(2)個人訳より  
①J・ゴーブル訳  
それ、心に貧しきものは幸いじゃ。けだし天の御ご せいじ政事その 人のものなり。  
※一八六〇年来日したジョナサン・ゴーブル「摩太福音書」 (一八七一年)よりで、最も古い訳の一つで、口語体である。

②塚本虎二訳  
ああ幸いだ、神に寄りすがる〝貧しい人たち〟天の国はそ の人たちのものとなるのだから※岩波文庫「福音書」として出版(一九六三年)され、多く の人たちに読まれた。庶民的訳の一つである。現在、塚本訳『新 約聖書』(二〇一一年)となる。  

③前田護郎訳  
さいわいなのは、霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。  
※世界の名著 12 『聖書』(一九六八年)に初登場。現在、『前 田護郎選集』別巻(二〇〇九年)で読める。「心の」が「霊に」 となっている。本来の原語に即した訳である。

④岩隈 直訳  
幸福だ、霊において貧しい人たちは、なぜなら、天の国は 彼らのものだから。  
※希和対訳脚註シリーズの一冊として出版(一九八九年)。後、 『福音書』(一九九八年)となる。②〜④の塚本、前田、岩隈の 三人は、無教会系の人たちである。これに対して、次の人た ちは、先に述べたように挑戦的、意欲的な訳をする。  

⑤柳生直行訳  
神によろこばれるほんとうに幸福な人は、だれだと思うか。  
ほんとうに幸福な人、それは自我を捨てた人達である。天 国は彼らのためにあるのだ。  ※『新約聖書』(一九八五年)。訳者後記に、その翻訳に対す る熱い思いが語られる。その実際が、この個所にも表現され ていて、共感する。

⑥本田哲郎訳  
心底貧しい人たちは、神からの力がある。天の国はその人 たちのものである。  
※カトリックの神父として、大阪釜ヶ崎での活動から産み 出された聖書である。『小さくされた人々のための福音―四 福音書及び使徒言行録』(二〇〇一年)。本田師による「はしがき」 「新しい訳語、言い回しの試み」「付録」、1〜5は、一読に値 する。「社会的弱者に沈黙と忍耐を押しつけてきた誤訳『貧し い人は幸いである』」となぜ「心底」と訳したかを語っている。

⑦山浦玄嗣=ケセン語訳  
頼たよりなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。 神様の懐ふところに抱だ がさんのァその人ひ だぢ達だ。  
※医師でカトリックの信徒である山浦氏は、故郷岩手県気仙 地方のケセン語で聖書を翻訳した。訳者の朗読CD付である。 マタイ福音書は二〇〇二年刊である。表記の文字もケセン語の 発音をうまく表すために、特別な造語文字を使用している。 「解説」と共に、納得できるものがある。

⑧田川建三訳  
幸い、霊にて貧しい者。天の国はその者たちのものである。  
※新約学者として多年の研鑽のもと、「新約聖書」(訳と 註)の形で出版。第一巻『マルコ福音書・マタイ福音書』は 二〇〇八年刊。各種翻訳への批判がなされている。ギリシャ 語原文を直訳するとこのようになると、註記と共に解説する。 一読に値するように思う。

以上、共同訳、個人訳を若干のコメントを入れて述べてきた。 マタイ福音書五章三節、たった一か所の聖句でも、このよう に多くの翻訳がある。一つの翻訳史となっている。本来のギ リシャ語原文を日本語訳にした場合どうなるのか、考えつつ 読み沈潜したい。そして今、新改訳、新共同訳の両者において、 総力を挙げて新しい訳を試みているという。祈りつつ出版を 待ち望むものである。

二「山上の説教」本来はどのようであったかーマタイ、ルカ福音書を比較して  

新約聖書学の研究成果より、今日、二資料仮説の定着より、 本来のイエスの説教は次のように考えられている。(詳述して いたが今は略す。)

幸い、貧しい者
  神の国は彼らのものとなる。
幸い、飢えている者
  彼らは満ち足りるようになる。
幸い、泣いている者
  彼らは笑うようになる。  

ここに真の意味での「新しい福音」を発見し、生きる希望、 光を見出す。聖書を読み、学ぶことの充実、そして生きるこ との支え、根底としたい。七四歳、今日も徹底して歩みたい。

マラナ・タ