聖書研究

疲れ 水を求めるイエスとサマリヤの女 片柳 榮一

【聖書研究 ヨハネによる福音書 第三回】 

ヨハネによる福音書第四章の「サマリヤの女」の話は私にとって印象深く、これまでも何度か取り上げてきました。好んで取り上げた理由を考えてみますと、やはりここでサマリヤの女と話しているイエスの、旅に疲れた姿に何とも言えない親近感を覚えたからではないかと思います。ヨハネ福音書のイエスは、明らかに著者も意識して到る所で、その神的側面が強調されています。しかしこの四章では、これも意識的だと思われますが、「旅に疲れて」(六節)と例外的と思われるほど、イエスの人間的弱さに言及されています。今回もそうしたことを中心にして、新たな思いで、この聖書の章句を取りあげてみたいと思います。

 

この出会いが生じることになった経緯を語ることから四章は始まっています。イエスはユダヤの地を去ることになりますが、その理由はユダヤ人の嫉妬にあることを示唆する語り方で、福音書記者はこの話を始めます。イエスがヨハネよりも多い弟子をつくり、洗礼を授けていることがパリサイ派の人々の耳に入ったというのです。前の三章二六節において、イエスの活動について人々はヨハネに伝えています。かつてヨルダン川の向こう側で一緒にいたイエスが、ユダヤの地で洗礼を授けており、人々がみなそちらに移っているとの報告が記されています。この報告はこのイエスのサマリヤ行の場面にうまく共鳴しています。イエスはそれを知ると、おそらくユダヤ人との摩擦を懸念し、ユダヤを去り、再びガリラヤに向かったというのです。しかし故郷のガリラヤに遠回りしないで帰るには、半ば異教の地サマリヤを通らねばならなかったのです。

 

「それでヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルという町に来られた」(五節)。サマリヤの女との出会いの場所を説明するこのなにげない文章は、研究者の興味を引くものです(Ch.K.Barret, Das Evangelium nach Johannes, S.250)。創世記の終り近く四八章二二節で、ヤコブはヨセフに言います。「わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする」。この記事を念頭において福音書記者は語っていると思われます。ここでヤコブはヨセフに一つの土地を与えたというのです。しかしこの土地がどこなのかはこの記事からは特定できません。その特定のために、或る技巧がなされます。ヨシュア記の終り二四章三二節にヨセフの埋葬の記事があります。「ヨセフの骨は、その昔、ヤコブが百ケシタで、シケムの父ハモルの息子たちから買い取ったシケムの野の一画に埋葬された」。このヨセフの埋葬の記事そのものはこの土地がヤコブから与えられたものとは記されていませんが、先の創世記の終りのヤコブの贈与を窺わせます。そしてさらにこの土地の取得を補強する記事として創世記三三章一九節があげられます。「ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建て」た。この三つの記事はそれぞれ独立したものですが、この三つを組み合わせると、シケムの地の一部をヤコブはヨセフに与え、この地にヨセフは葬られたという話が出来上がります。ヨハネ福音書記者は明らかにこのような形で組み合わされ、解釈された土地の由来の伝承を知っていたことがここから窺われます。ヨハネ福音書の成立は、小アジアのエペソであるとされ、ここでヨハネ文書と言われる福音書、手紙(黙示録は直接ここに所属させるのには無理がありますが)が成立したと推定されるのです。しかしこの福音書記者自身は、パレスティナ出身であろうと推定されるのですが、その理由の一つは、こうした細かい土地の由来伝承を熟知していると思えるからです(M.Hengel, Johanneische Frage, S.306)

 

福音の真理に対する誤解の典型が示されているものと思われる三章のニコデモと四章のサマリヤの女の物語は対照的でもあります。指導者ニコデモとの対話は、非常に込み入った知的な対決という性格が示されていますが、それは夜の薄暗がりの中で為されています。これに対し、サマリヤの女との会話は、昼下がりの田舎町の井戸の傍らでなされ、いかにも素朴な雰囲気をもっています。私はパレスティナの風景を知らないのですが、なにか地平線が遠く広がる小さな町の埃にまみれた古い井戸の傍らでの出来事のようです。この井戸は「ヤコブの井戸」と言われていますが、旧約にその記事はなく、この地方の伝承のようです。三章ではニコデモが真剣な面持ちで、先生と呼びかけるのですが、それも無視して、ニコデモに欠けているものを指摘する主イエスには張りつめた緊張が感じられます。しかしヤコブの井戸の傍らに座り込んでいるイエスは、福音書記者自身が記す如く、長旅のせいで疲労困憊しています。そこに一人のサマリヤの女が水を汲みにやってきたので、イエスは水を飲ませてくれるように頼みます。異教の宗教風習に染まったサマリヤ人を嫌い、行き来も断絶しているユダヤの男が、気軽に水を求めるのに女は驚きますが、このへたりこんだ男はそんなことに構う様子もありません。それどころか不思議なことを言います。「もしあなたが神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(一〇節)。

 

ニコデモの場合は言葉の取り違えは、新しく生まれるということを単に身体的誕生としてだけ捉え、霊から生まれるということが理解できないニコデモの精神の硬直から起こりました。そしてこの取り違えには「プネウマ」という言葉の意味の二重性が介在します。つまり「プネウマ」という言葉は「風」という意味が元来あり、また「霊」をも意味しています。風の気ままさから「霊」の不思議さに思い及ばないニコデモは叱責されました。このサマリヤの女は「生きた水」を単に、いつまでも補給する必要のない不思議な「水」としか理解しません。しかしこれは無理もないことと言えます。ブルトマンも、指摘しているように(R.Bultmann, Das Evangelium desJohannes, S.132)「生ける水」という言葉は、古代オリエントの一般的な用法では、湧き出る水、泉の水を意味したようです。旧約聖書での用法を見てみます。創世記二六章一九節では次のように言われています。「イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると」。ここでは「生ける水」(マーイーム・ハーイーム)が「豊かに湧き出る水」と訳されています。またレビ記一四章六節ではこの生ける水は、「新鮮な水」と訳されています。しかしエレミヤ記二章一三節では次のようです。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜である」。ここでは「生ける水」は単に新鮮な湧き水ではなく、この福音書と同じような意味で用いていて印象深いものです。「生ける水」が日常的には、新鮮な水という意味で用いられていたとすれば、サマリヤの女が勘違いをしたとしても、あながち責められません。無理からぬことと言えましょう。福音書記者はこの流動的な意味の幅を巧みに利用して、取り違えが極めて自然とも言えることを示し、同時にこの取り違えの根底にあるものを抉り出そうとしているとも言えます。

 

サマリヤの女はこの「生ける水」を新鮮な、しかも渇くことのない水と解しました。わたしたちのそう遠くない時代でも、水汲みという仕事は大変な労働でした。砂漠地帯では、地中深く掘った井戸から汲み上げねばならなかったのでしょうし、かなりの距離を運ばねばならなかったでしょう。だからこうした骨の折れる労働を省いてくれる、不思議な、新鮮な、「生ける水」は、何としても手に入れたいと思ったことでしょう。「生ける水」のこれ以外の可能性をわたしたちは如何に考えうるでしょうか。このみすぼらしく水を求める見知らぬ旅

人が、突然もっと違った「生ける水」をわたしは与えうるから、求めなさいと言われたとして、どのような場合に、わたしたちはそれに答えて、「わたしは求めます」と答えうるのでしょうか。何らかの意味で、わたしたちが、日常的な「渇き」のほかに「生ける水」への渇きをもっていると自覚していなかったなら、このサマリヤの女のように、煩わしい労働を省いてくれる尽きない「新鮮な水」をひとえに求めるに留まったことでしょう。あらためてわたしたちのうちにそのような別の「いのち」への渇望があるのか、イエスに問われていることを思わされます。

 

これに関してブルトマンが述べていることはやはり示唆に富んでいます。彼は神の啓示の賜物を「水」と表現する場合の独特の意味を次のように述べています。「水は、生きている者が常に必要としている或るものである。しかしこのいつもこみあげてくる渇きの求めにおいて露わとなるのは、人が生きることを欲しているということである。人が飢え、渇く時、彼が根本において求めているのはあれやこれやの何かではなく、生きることを欲しているのである。彼が本来欲しているものは、水でもパンでもなく、生が人に与えてくれるもの、人を死から救ってくれるもの、つまり本来の水といえるもの、本来のパンといえるものである。だからまた明らかであるのは、『生ける水』は根本において、『生きるようにさせる水』であり、かの啓示者(イエス)が語る『いのち』が持っている意味に適ったものである」。(ブルトマン、前掲書、S.136

 

サマリヤの女の「生ける水」についての笑えない取り違えを通して、わたしたちは本当に「新鮮に湧き出る水」以外に、「生ける水」と言えるものを求めているのかとの問いを突き付けられました。確かにわたしたちは、日々水を求め、おいしく新鮮な水に渇きを癒されています。しかし、この「水を飲む」行為において求めているのが、単にこの新鮮な水そのものではなく、この水を通して「生きる」ことであることを知らされます。この単純な飲む行為においても、決してこの水に留まっているのではありません。わたしたちが「水」を飲み、「パン」を食べながら、その根本において求めており、求めざるをえない「生きる」に我々はいつも突き戻されます。しかしこの水は、生きるためのもの、このパンも生きるためのものとして、あらゆことが生きるためのものとして収斂してゆく中で、この「生きる」ことそのものが、あらゆる「そのために」を欠き、あらゆる目的を奪われた、その虚ろな謎めいた姿で現れざるを得ません。

 

こうしてわたしたちはあらためて、先の一〇節の言葉に連れ戻されます。わたしたちもサマリヤの女と同様に、この見知らぬ、疲れた旅人の不思議な言葉の前に立たされます。「もしあなたが神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(一〇節)。わたしたちは、自分が日々の水を飲む行為においても、単に「新鮮な水」を求めているのではなく、真に「生きる」ことを求めていることを知らされました。ここにおいて単に「水」への渇きと、「パン」への飢えという欠乏状態にあるのではなく、「生きる」ということの全体を覆っている或る「欠乏」、謎めいた「虚ろさ」の前に立っていることを知らされます。わたしたちの日々の営みの喧騒の奥底で、あれこれの目的が消えてゆかざるをえない「生きる」というあてどなさの暗がりで、途方に暮れている自らを見出します。これこそわたしたちの本当の「渇き」であることを知らされます。当たり前の日々の「水を飲む」行為においてもすでに目指されている「生きる」ということの謎めいた「渇き」の前に改めて立たされます。

 

この疲れた見知らぬ旅人は、神の賜物と、この水を求める者が如何なる者であるかを知っているなら、その人は「生ける水」を与えたであろうと語ります。神の賜物を知ると、突然言われて面くらいますが、確かに「生きる」ことの謎めいた不可解さの前では、わたしたちは、自らの「虚ろさ」を告白し、この渇きと空虚を満たしてくれるものとしての「賜物」に身を開くことしかないことを思わされます。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧きでる」(一三一四節)。この言葉に促され、この見知らぬ人のみすぼらしさを突き抜けて進むよう招かれていることを思わされます。

 

わたしたちに渇くことのないいのちの水が与えられるためには、この旅人のみすぼらしさに抗しなければならず、この疲れた旅人が約束する「生ける水」を信じ、その「永遠の命」の水の前味を、日々信仰において味わいながら進みゆかねばなりません。しかしこの疲れ渇いた主の姿は、単にこれに抗して突き抜けねばならない躓きとしてあるだけではないように思われます。このヨハネ福音書の四章の、サマリヤの地の古いヤコブの井戸の傍らにうずくまる埃まみれの主の姿に、わたしは長年とらえられてきたように思います。その理由は、そこにこの福音書には稀な、人間としてのイエスの姿が見られるということだと思いますが、それだけに尽きるのではないように思われます。恣意的な比喩的解釈にならないことを願いますが、日々の営みの様々な目的に追いまくられながら、その果てで、あらゆる「そのために」という明確な目的を奪われた、剥き出しの「生」の荒野で、途方に暮れている自分の姿をも示されます。主のみすぼらしく弱った姿そのものが、わたしたちへの憐みの呼びかけであることを思わしめられます。