聖書研究

「コロサイの信徒への手紙」を読む(六・最終回) キリストと共なる生 下村 喜八

コロサイの信徒への手紙 第3章12節―17節

1 御子の支配

御子の支配とはどのようなものであろうか。ヨーロッパの会を訪れると、黄金と宝石で飾られた王冠をかぶり、地球儀を手にした、あるいは地球儀を足台にして立つキリスト像を見かけることがある。イエス・キリストはそのような絶大な権力をもった王のように私たちに命令し、服従させる方であろうか。そうではない。キリストは弟子たちの足を洗われた方である。また弟子たちを呼びよせて次のように語られた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ二〇25―28)。

イエス・キリストは、苦しむ人、病める人、罪ある人間のもとに降りて来られた方、この世における共苦の人である。そして罪を贖うために十字架にかかられた。黄金の冠ではなく、茨の冠をかぶせられた方である。キリストは仕えること、自己を他に与えることによって支配する方である。ボンヘッファーは次のように言う。「神はご自身をこの世から十字架へと追いやる。神はこの世に対しては無力で弱い。しかし、神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ我々のものであり、我々を助けられる。(……)キリストが我々を助けられるのは、その全能の力によってではなく、その弱さと苦悩によってである」(『獄中書簡』)。ちなみに、卑しく悲惨な姿の神に出会っている点で、ラインホルト・シュナイダーも同じである。

上記二人が生きた時代にナチスを支持したキリスト者もいた。「ドイツ的キリスト者」と呼ばれている。彼らは、ナチスの台頭によって再び生まれてきた「ドイツ的生命感情」に同調し、教会の勢力を強化しようとした。彼らは自民族に対する選民意識

をもっていた。そして侵略戦争による民族の繁栄とドイツ精の高揚を祈念した。それはドイツだけには限らず、日本にもよく似た思想のキリスト者がいた。「日本的キリスト者」と呼ばれる人たちである。そのような人たちは、ナチスに抵抗した上記二人とは違った神に出会っていたと考えざるをえない。それ栄光の神、力としての神である。彼らは、実は、神の力によって自国と教会の繁栄、あるいは自己の栄光を求めていた。彼らの神は、自分の願望の延長線上にあって、それをかなえてくれるものとしての神である。その底にあるのは宗教という形をとったエゴイズムであり、単なる物欲ではないが抽象化・精神化された貪欲である。「コロサイ書」の「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(三5)という奥行きの深い言葉はここにも当てはまると言える。キリスト教が、栄光の神・力強い神への信仰によって、歴史の中で多くの過ちを犯してきたことは周知の通りである。

前回、私たちは、神が私たちを闇の力から救い出して、御子の支配下に移してくださったことを学んだ。御子の支配下にあるところは一般に「神の国」と呼ばれている。神は私たちを「地の国」から「神の国」へ移してくださったのである。それを「コロサイ書」に即して理解すると、地の国とは、闇の諸霊と肉の欲望が支配する国であり、神の国とは、キリストに啓示された愛が支配する国である。「地の国」のもたらす実は、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲等である。(三5―8)「神の国」のもたらす実は、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、相互の忍び合い、赦し合い(三12―13)である。

2 愛への自由

前回「コロサイ書」に表現された自由について考察し、自由には常に二つの方向があり、私たちはあるものから自由にされて、別のものへと向かうと述べた。キリスト者の自由は放恣で

無責任な自由ではなく責任の伴う自由である。キリスト教の概念はすべて人格的な関係の中で理解されなければならないと繰り返し述べてきたが、自由においても同じである。キリスト者の自由とは、キリストの愛と信頼に対して愛と信頼をもって応えるという応答責任を内に含む自由である。上記の文脈にしたがって表現すると、キリスト者の生活は、地の国から自由にされて神の国へと向かう。すなわち罪およびこの世の力から自由になって愛へと向かう。

3章12―13節「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。

ここに五つの徳目が並べられている。「忍び合う」、「赦し合う」をも加えると七つになる。そしてこれらの徳目を前後から挟む形で、その理由、および実行を可能にする力が書かれている。前には「神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されているのですから」とあり、後ろには「主があなたがたを赦してくださったように」とある。神に愛されているから、主に罪を赦されているから、私たちには上記の徳を身につけることが可能となる。自分を律してそれらの徳を実行することはできない。そして徳目は単に個別に並べられているのではないように思われるので、徳目のうち「謙遜」を手がかりにして諸徳の関連について少し考えたい。

3 謙遜と信仰

数年前、京都共助会例会の帰り道で青山章行さんから、内村鑑三が『ロマ書の研究』で、キリスト教道徳として最初に上げ

ているのは謙遜であると教えてもらった。キリスト教道徳の本質は「共苦」、すなわち苦しむものと共に苦しむことであるとショーペンハウアー(1788-1860)とシュナイダー、そしてそれを否定する形としてニーチェ(1844-1900)を通して学んでいたので意外な感を受けた。

「実るほど頭こうべをたれる稲穂かな」という有名な言葉がある。私は祖父からこの言葉を学んだ。祖父は実った稲穂を指しながら、このように稲の穂は実れば実るほど頭をたれる。人間も賢くなればなるほど頭を低くしなければいけないと教えてくれた。祖父の教えに応えて謙遜に生きたいと思うが、これは非常に難しいことである。皮肉なことに、心にゆとりがあるときは謙遜でいることはできる。しかし、相手にないがしろにされたり、ぞんざいな扱いを受けたりすると怒りと傲慢が頭をもたげてくる。そして自分の心を治めることができなくなる。自分は虚栄心が強い人間だと痛感させられる。

「コロサイ書」は、戒めや教え、規則や慣習に従って行動することによって神と人の前に自分の正しさを主張する人々が見せる謙遜な態度に対して「偽りの謙遜」という言葉を使っている(二18、23)。外見は謙遜であっても「肉の欲望を満足させるだけである」(二23)と。ここで、ファリサイ派の人と徴税人の二種類の祈りについてのたとえを思い起こさせられる。前者は神の前に誇らかに自身の正しい生活(美徳)と篤い信仰を持ちだして感謝するが、後者は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る。神に義とされるのは後者であってファリサイ派の人ではないとイエスは語る(ルカ一八9―14)。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」(ルカ一六15)。神は人間の心の奥底を問題にされる。神と人に対する血のかよった心の関係が問題である。信仰の誇りであれ、美徳の誇りであれ、教会の誇りであれ、神の前に誇るものがあるときには、それが障壁となって神の愛と平和とキリストの命が私たちの心の中に届かない。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編五一19)とある。悔いて砕かれた心に神は近づいてくださる。

ルターは謙遜について、「正しい謙遜」と「偽りの謙遜」の二つに分けて考えている。要約すると、正しい謙遜とは、自分自身を「無」あるいは卑しく、貧しい「取るに足りない存在」と考え、同時に、卑しい、取るに足りないものへと向かい、喜んでこれと関わる意志と心情である。前半は神に対する謙遜、後半は人に対する謙遜である。他方、偽りの謙遜は、謙遜な振舞いによって神の前に正しくあろうとし、同時に人の評価や報いを得ようとする。それは「コロサイ書」が「偽りの謙遜」と呼んでいるものと同じである。そのような謙遜は卑しい、取るに足りないものと関わろうとしないうえ、報いが得られないと分かると謙遜であることをやめる。「偽りの謙遜は、自分が高慢であることをけっして知らない」。「神のみが謙遜をみとめ、そしてまた、神のみがこれを判断し、明らかにしてくださる。それゆえに人は、真に謙遜であるときほど、謙遜について知ることは少ないのである」(『マグニフィカート』)。さらにルターは語る。神の前で誰一人、罪と堕落をのぞいては、誇ることができるものを何一つ持っていない。神の前で誇らなければならないことは、無価値なわれわれに与えてくださった神の純粋な善と恵みのみであると。したがって、彼にあっては、正しい謙遜は、「信仰によってのみ義とされる」という場合の信仰と同じ意味であることが読みとれる。

ルターの言う通り、私たちは自分の力で謙遜であることはできない。謙遜になれたと思うとき、そこに美徳の高慢が侵入するからである。イエス・キリストに出会って自分が罪人であることを知らされることによってはじめて、謙遜であることができる。そして謙遜となった心にキリストの愛が流れ込んでくる。キリストご自身が入って来てくださる。

4 謙遜と愛

高倉徳太郎が多大な影響を受けたと言われるピーター・フォーサイス(1848-1921)は、「謙遜とは、贖われた魂の自己自身の前での驚きである。いな、むしろ、自分自身の内なるキリストの前での驚きである」と述べているが、このように取るに足りない、罪に沈んだ者のために、キリストが十字架にかかって贖ってくださったことは、驚き以外の何物でもない。ちなみに、このフォーサイスの言葉に強く心を惹かれた理由は、驚きが完全に受動的な感情であるという点にある。キリスト教は徹頭徹尾、受け身の宗教である。初めに神の愛がある。私たちは神に愛され、罪を赦されたがゆえに、人を愛し、人を赦すことができる。多く赦された者が、多く愛することができるのである(ルカ七41―48)。私たちは、「わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(一29)と語る「コロサイ書」の筆者のように、キリストの愛と真実によって打ち勝たれ、圧倒されたときにはじめて、他者のために苦しむことを喜びとし(一24)、他者の罪の重荷を担うことができる。私たちはキリストの愛に対して純粋に受け身になればなるほど、あるがままの自分でありながら、積極的、行動的になりうる。「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結びたいと思う」(一10)。私たちにとって極めて困難なことであるが、憎しみを抱いていた人に対しても宥和的に接することができるようにされる。その理由を私は十分に説明することはできないが、私たちの心がキリストの愛と平和によって支配されるからであろう(三15)。それは、たとえば満開のみごとな桜並木の下を歩いていると、行き交う人が皆懐かしく感じられるのに似ている。「コロサイ書」の筆者の心はキリストの愛と平和を浴びて満開である。

神の前での謙遜から、人に対する謙遜が生まれる。前述のルターの言葉にもあるように、神の前における謙遜は、卑しい、取るに足りないものへと向かい、喜んでこれと関わる。「コロサイ書」は「キリストはすべてのもののうちにおられる」(三11)と語る。ここでは、ギリシア人とユダヤ人、未開人、奴隷と自由な身分の者等、民族、文化、身分による区別はないという文脈で語られているが、私たちは、これに関連して、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ二五40)というイエスの言葉を思い起こす。同じように、「コロサイ書」は「何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心から行いなさい」(三23)と勧めている。

最も小さい者、卑しい、取るに足りないものへと向かい、喜んでこれと関わる謙遜は、「わたしは柔和で謙遜な者である」(マタイ一一29 )と語られたイエス・キリストご自身が生きられた姿である。「キリストは、神の身分でありながら、(……)自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ二6―8)。イエス・キリストは、高きにいます神ではなく、自己を無にして、取るに足りない、罪人に過ぎない私たちのところに身を沈め、私たちの罪と苦悩のすべてを担ってくださる方である。そのようなキリストの自己無化(ケノーシス)あるいは謙遜による罪の贖いの中に神の愛が啓示されている。キリストの謙遜と愛は切り離すことはできない。むしろ両者は一つである。キリストに倣って生きるキリスト者についても同じことが言えるはずである。すると謙遜もまた、愛と同じようにすべての徳を生み出す源であり、「すべてを結ぶきずな(帯)」となる。

しかし私たちは日々、謙遜をはじめ、12節から13節にあげられている諸徳を身につけることの困難、そして愛することの不可能を知らされている。どのようにすれば幾分でも可能になるのであろうか。「コロサイ書」は「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(16節)と教えている。キリストの言葉とは、単に彼が語ったことだけでなく ― 彼においては語ることと生きることとの間に乖離がないゆえに ― その生涯、人格、行為、特に十字架上の苦難と死、それらすべてをひっくるめて「キリストの言葉」と考えることができる。そして「宿らせ」という言葉の意味は、家族が共に暮らすように永続的に共存する、共に住むことだそうである。そのような意味でキリストの言葉が豊かに私たちの内に宿るとき、私たちは純粋に受け身に、そして謙虚になることができ、私たちの内でキリストが生きて働いてくださる。すなわち現実は罪の支配下にありながらも、キリストの支配下にわれ知らず移されてゆく。

さらに「何を話すにせよ、行うにせよ、すべて主イエスの名によって行いなさい」(17節)とある。当時、「名」は今日のように単なる薄っぺらで空虚なレッテルのようなものではなく、名には、そのものの本質と力が宿っていると考えられていた。それは古代日本で用いられた「言霊」に似ている。そこでは「言葉」には不思議な力が宿っていると考えられていたが、ここでは「名」に本質と力が宿っている。したがって「主イエスの名によって行う」とは、イエス・キリストご自身の眼の前で、キリストの力によって行うことである。シュナイダーの言葉を紹介したい。「キリストの前にあること、彼の現前にあってあらゆる言葉を語り、あらゆる行為をなし、あらゆる考えを抱くこと以外に、われわれは真実に生きる道をしらない」。

3章16―17節「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(……)イエスによって、父である神に感謝しなさい」。紙面が少なくなってきたので、詩編と感謝と賛美について簡潔に述べたいと思う。「詩編」は狭義には旧約聖書の中の詩編と解することができる。詩編は信仰篤い人の祈りである。イエス・キリストの祈りの先取りであると考える人もいるほどである。人と神との魂の対話であり、聖書の中で神の現在を最もリアルに感じ取ることのできる書である。「感謝」に関しては、人間は感謝することによって自分の幸福の確証を得ているに過ぎないというニーチェの辛辣な言葉がある。的を射ているところがあり、私たちは深い反省を促されるけれども、罪を赦された喜びに心を満たされるとき、感謝はおのずとあふれ出てくる。そして「感謝のないところに、生きたる、あたたかい、くつろいだ信仰はない」(内村鑑三)ことは事実である。また謙遜との関連で考えれば、私たちにとって、自分の力で謙遜であることは不可能であるが、神に感謝するとき、神を賛美するときは、神の前におのずと謙遜に成り得ているのではないであろうか。つとめて謙遜であることはできないが、感謝すること、賛美することはつとめてできることである。

5 同行二人

私は若い頃8年間四国で暮らしたことがあり、よくお遍路さ

んを見かけた。彼らがかぶっている菅笠には「同どうぎょう行二に 人にん」と書かれていた。空海と一緒にめぐり歩くという意味である。この言葉が好きで、私もまた彼らに倣って生きようと思った。彼らの伴侶は空海であるが、私の伴侶はイエス・キリストである。そのことを常に忘れずに生きたいと思った。ところで、前々回、キリストを着るとは、キリストの内にいること、キリストを住まいにすることだと述べたが、「コロサイ書」には、内と外が逆転して「あなたがたの内におられるキリスト」(一27)という表現もある。さらに「キリストと共に」という言葉は10箇所ほど出てくる。「キリストに結ばれて歩みなさい」(二6)、「キリストにあって歩みなさい」(同)、また「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」(二7)という言葉も出てくる。このことからして、「コロサイ書」の筆者の教えと生活が、どれほどキリストと一体であるかが分かる。自分とキリストとの区別がつかないほどに一体である。「あなたがたの命」であるキリスト(三4)、「キリストがすべて」(三11)とある。

物理的な時間としての現在(瞬間)はたちまちに過ぎ去り、無でしかないが、私たちがキリストの愛の内にあるとき、またキリストの愛が私たちの内にあるとき、私たちは満ち足りた現在、充足された現在を経験する。時間が止まったように感じられるという意味で「永遠の現在」と呼ぶこともできる。キリストに似た者になる歩みが私にできているとは断じて言えない。しかしひとり神に祈るとき、聖書を読むとき、人から無償の行為を受けたとき、キリストに生かされた小さな行為が人の心に伝わるとき、そして信仰の友と交わるときに、満ち足りた現在を経験したことがある。その時、今ある自分が本当の、あるべき自分だと知らされる。その時、心に平安と喜びと生い のち 命があることに気づく。そして、このようなキリストの内にある生、キリストと一つなる生それ自体が私たちの生の意味であり、目的であることを経験的に知らされる。このキリストの内にある生、キリストが内にいます生を感謝と喜びの内に生き、他の人に伝えたいと思う。           (日本基督教団 御所教会員)