私は良い羊飼いである(ヨハネ福音書第五回) 片柳 榮一
聖書研究 ヨハネによる福音書 第五回
主イエスを羊飼いに譬えたヨハネ福音書一〇章は、或る親しみを込めて私たちに語り掛けてくるものを持っている。私たちの生活は、牧畜とはかけ離れているが、聖書に親しんだ者にとっては、この世界は親近なものである。国の指導者、国王を羊飼いに、従う者達を羊に譬えるのは、オリエント世界では馴染の表現法であり、そのように神も、指導者として羊飼いに譬えられる。旧約聖書でも主なる神は、「イスラエルを養い……羊のように導かれる方」(詩編八〇2)と言われ、「主は羊飼いとして群れを養い」(イザヤ四〇11)と宣べられ、我々にも親しい詩編二三編では「主は羊飼い、わたしには何も欠けることはない」と歌われている。共観福音書でも、この譬えに呼応しているところがある。さまよう群衆を見て憐れまれるイエスの姿である。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ六34)。この言葉はマルコでは五千人の給食の前に置かれているが、マタイは独立させている。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ九35―36)と語り、イエスの宣教活動全体の底にあるイエスの根本の姿勢を特徴づけるものとしてこの表現を用いているのは印象的である。
こうしたイスラエルの宗教的伝統にヨハネ福音書一〇章の羊飼い像も或る程度対応している。羊飼いが群れを導き(4節)、牧草地へ導く(9節)。しかしヨハネ福音書の羊飼いには、国家を導く支配者としての羊飼いのイメージは決定的に欠けている。それ故メシア的支配者像ではない。そこからヨハネ福音書の羊飼い像には、聖書的伝統との類似点よりも相異点が目立つとして、その相違の淵源を他の伝統、ここではグノーシス主義にみる研究者も多い(例えばブルトマンDas Evangelium des Johannes,S. 279)。そのことにはまた後でふれてみたい。
羊飼いと羊を問題にする一〇章は、生まれつきの盲人の癒しを扱った九章とは主題からして全く別であり、新しいスタートであるように思える。しかし或る研究者(Ch.K.Barrett, DasEvangelium nach Johannes, S368)は、九章の終りは、弱り果てた羊としてのこのかつての盲人を追い出してしまうイスラエルの宗教指導者たちが、まったく羊飼いとして機能不全に陥っていることを示して終わっているので、一〇章は、そのことに対する一つの注釈と見ることが出来るという。鋭い考察で、そのような観点もあるかと思わされる。確かに一〇章の核心部分は、イエスが「私は羊の門である」(7節)と語り、「私は良い羊飼いである」( 11節)と語る「一人称」の語りのところである。すると最初の導入部で三人称的に羊飼いを叙述するところは、加筆であろうとの多くの研究者の推測(ブルトマンはその急先鋒とも言え、一〇章の構成を大幅に組み替えている。前掲書S. 276ff)も成り立つと言える。原資料と加筆をどう見分けるか、延々と論争されるところであり、今はそこに入り込まないが、先のバレットの指摘は、一〇章がその核心部分から始まらないで、第三者風な語り口で、偽の羊飼いの批難から始まる違和感を和らげてくれる。
一人称表現の「わたしは……である」は、まず「わたしは羊の門である」(7節)で始まり、「わたしは門である」(9節)と言われ、「わたしは良い羊飼いである」( 11節)と続けられる。7節の「羊の門」に入るべきものは、羊である。「羊彼ら(盗人)の言うことを聞かなかった」(8節)。「わたしは門である」という門に入るのは、人である。「わたしを通って入る者は救われる。その人は牧草を見つける」(9節)。これらの譬えが目指しているのは、「命の救いを得る道は、私を通して以外にはないという」メッセージである。そして11節の「わたしは良い羊飼いである」との第三の表現は、まとめとも言える。ここでは「私は羊飼いである」というだけでなく、「良い羊飼い」と始めから「良い」という修飾語がついている。しかし「狼が来るのを見ると、羊を置きざりにする」(12節)のは、羊飼いではなく、雇い人であるという。すると「良い羊飼い」とは「本当の、真の羊飼い」という意味であることになろう。真の羊飼いという意味での「良い羊飼い」は何処で知られるかといえば、「羊のために命を捨てる」( 11節)ことからであるという。羊飼いを羊飼いたらしめているのは、羊のことを心にかけ、その群れのために、一身を捧げることであるという。
「私は良い羊飼いである」という表現が14節で繰り返される。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。ここでは良い、真の羊飼いがその飼う羊のことをよく知っていることが述べられる。羊飼いが、その群れのために一身を捧げるほどに心にかけている現れ、結果として、それぞれを親しく知っていることが示され、羊のほうもそのように関わる羊飼いをよく知っているのだと解することもできよう。単に給料のための雇い人は、そのような心遣いはできないのである。しかし知っているということが、気にかけ、愛していることの現れ、結果というより、良く知っているからこそ、この羊のために羊飼いは命をも捧げると考えることもできよう。15節で、羊飼いと羊の相互認識の根拠が、「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と述べられ、この相互認識の根源の深さが示唆されていることからすると、福音書記者は、羊飼いは羊をよく知っているが故に、そのために命を捧げることができると考えていたのかもしれない。確かにこれに続く言葉として「わたしは羊のために命を捨てる」と述べられ、命を捨てる理由が、よく知っていることにあることを示しているようである。
「わたしは羊を知り、羊もわたしを知っている」との言葉は重要である。先に羊飼いの譬えの、イスラエル的伝統と異なる淵源としてグノーシス主義を指摘する研究に触れた。グノーシスとは「知」であり、ここでは「知っている」ということが、ことのほか重要視され、強調される。3節ですでに「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われていた。「聞き分ける」と訳されたが、ここの動詞は単純に「聞く」という日常語である。しかし羊がその声を聞くとは、その声を知っているからである。知っているから、他の声と区別し、「聞き分ける」のであり、この訳は適切と言える。前回六章45節の「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとにくる」という言葉の深い意味あいについて考えてみた。そこにもヨハネ福音書のグノーシス的背景とでもいえるものを見ることができるかもしれない。しかしそれは事柄そのものの深みに関わっていると思う。14節で羊飼いと羊が相互に知り合っていると述べて、15節では「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と続いている。六章45節でも、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」と述べて、この「知」が、単にあれこれの知識、あの時この時に得た経験といった時間・歴史の次元を超えた、永遠の父なる神に学んで得たものであることを語っていた。この知の根源の深さを示唆している。
このように相互の知を強調することにおいてヨハネ福音書はグノーシスとの親近性を示す一方、羊のために命を捧げる羊飼いにすべてを集中させることにおいて、グノーシスにはみられないこの福音書の特性を示していると言える(Ch. Barrett, S.376)。そのことを鮮明に語るのは、17―18節であるように思われる。まさに主イエスを羊飼いに譬えたこの一〇章の頂点をなす箇所と言えよう。重要なので、一語一語噛みしめるために自ら訳すことを試みたい。「父がわたしを愛されるのは、わたしがわたしの命を差し出すからである。それはわたしがふたたび命を受け取るためである。誰もわたしから命を取り去るのではない。わたしがそれを、わたしから取り、差し出すのである。それをさしだす力がわたしにはあり、またそれをふたたび受け取る力がある。この掟をわたしは、わたしの父のもとで受け取ったのである」。先の段落で、良い羊飼いを「良い」羊飼いたらしめるものが、羊をよく知り、心にかけ、そのために命をも捧げることであると示されたが、この良さは、神が自分を愛してくれる理由でもあるという。これに対して、そうしたものが神の愛だとすれば、それは故無くして愛するアガペーではなく、エロースにすぎないとしたり顔でいうべきではなかろう。神が根源的に、良しとされ、喜び給う在り方が示されているのである。「それはわたしがふたたび命を受け取るためである」と訳したところは、 ἵνα という通常「~のため」という目的を示す接続詞が使われているのでそう訳したが、研究者も戸惑うように、ぎこちない感を否めない。ふたたび命を得るために、命を捨てるというのは、動機において純だとは言えないという気持ちを抑えがたい。ヘレニズム期のギリシア語においてはこの用い方が弱められているとの指摘(Ch. Barrett, S. 376)に従って、捨て、そして再び得たと、結果として考え得よう。「復活信仰」を基とした意味合いで考えるのである。
「誰もわたしから命を取り去るのではない。わたしがそれを、わたしから取り、差し出すのである。それをさしだす力がわたしにはあり、またそれをふたたび受け取る力がある」。もちろんここで人は、イエスの十字架の死を想起する。かの残酷で惨たらしい屈辱の死、屠り場にひかれ行く羊のごとき死、それはまったく受動、裏切、圧迫の死であり、そこには自由の影さえ見えない。我々はゲツセマネの園で、主が「この杯をわたしからとりのけて下さい」(マルコ一四36)と血の汗を流して祈られたと告げられている。まさしく受難するイエスである。そして十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ一四
34)と叫ばれたとの報告を知っている(ヨハネ福音書には両方とも記されていない)。ここには絶望以外に認められず、どこにも自ら進んで命を捧げる自由な振る舞いをみることはできない。しかしヨハネ福音書記者は、イエスの死をまったくの自主的な、誰からの強制でもなく、自ら進んで為す行為であるという。おそらくアウグスティヌスは、この聖句を念頭に置きながら、次のように語っているのであろう。
「というのも誰かの正当な権力行使によって肉の生から引き剥がされたのではない。そうではなく自らが自らを肉の生から引き剥がしたのである。もし欲しないなら死なないこともできた方は、疑いもなく、自ら欲したから、死んだのである」(Detrinitate IV, 13, 17)。ヨハネ福音書記者も、その影響を受けた古代教会教父も、神の子の死へ向かう揺るぎない「自由」な歩みを見つめる。しかし確かに我々は、そのようなところには立っていない。ゲツセマネで死を前にして悶え、十字架上で絶望の叫びを挙げる「弱き人」しか見えない。しかしこの喘ぎと叫びの先端でこれを神の定めとして従順に受けとめるイエスを、大いなる肯定の明るみで照らす、或る光を、認め、垣間見ることは許されるであろう。神の子であるが故に、何らの弱さも苦悩もなく、死を平然と受け入れた存在であるなら、肉と成り、人間と成られたことが単なる仮の現れでしかなかったことになろう。弱さと苦悩をもちながらゲツセマネで苦悩する人のうちに、十字架上で絶叫する人のうちに、そのようにして死の定めに従う人のうちに、不可思議な自由の神秘を、見ることは、信仰の眼には許されていると言えよう。
「この掟をわたしは、わたしの父のもとで受け取ったのである」(18節)。「掟」と訳したギリシア語 ἐντολή は、権威ある者から発せられる、指図や指令である。するとこれは自発的な自由な行為ではないように思える。確かに勝手気ままな行為ではない。しかし深い自らの決意をもって受け取られている。前の口語訳は「父から授かった定め」と訳している。父の定めに従うことは、ほしいままな、自分勝手な行為ではないが、その厳然たる定めに、心の底から従うという点で十分な自発性を持っている。その意味で味わいある訳である。「父のもとで受け取った」とは、神の御子が、この世に下る以前に父から受け取った、という古代的表象で受け取られることもできようが、そのように考えなくてもよいであろう。イエスが深い孤独の祈りの中で、親しい父としての神より示された、最後決定的な指図、指令と言えよう。しかも動詞はアオリストで、いま突然にこの命令を受け取ったのでなく、すでに事実となって現在を規定しているのである。そのようにイエスの歩みは、隠された決意が少しずつ踏み固められ、明らかにされてゆく過程であったように思われる。
ヨハネ福音書は、死に向かって進むイエスの姿を明確に意識して書き進められているように思える。洗礼者ヨハネに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言わせ(一29)、ニコデモに対して「人の子も上げられねばならない」(三14)と十字架の死を暗示し、パンの奇跡に躓く人々に「それでは人の子がもといたところに上るのを見るならば」(六62)とイエスの死による躓きを示唆している。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実をむすぶ」(一二24)。この有名な言葉は、この福音書の中核を言い表している。
そして「それをさしだす力がわたしにはあり、またそれをふたたび受け取る力がある」との一〇章18節の言葉は、「一粒の麦」の出来事の根底にあるイエスの深く隠された決意を照らし出しているようである。ヨハネ福音書記者はイエスの思いに迫ろうと胸元近くに寄り添うのである。