御名が崇められますように 朴大信

はじめに

前回は「我らの父よ」について思いを巡らせました。先に進みたいところですが、一つ、前回の補足から始めたいと思います。それが今回の主題「御名が崇められますように」への架け橋にもなると思うからです。即ち、「我ら」に関する考察です。 父なる神を、「我らの(わたしたちの)」父と呼ぶことを教えるのは、ルカではなくマタイによる福音書です(ルカは単に、「父よ」とだけ記す)。しかし、「我ら(わたしたち)」という言葉が、特に主の祈りの後半で繰り返し用いられる点については、両福音書とも共通して伝えていることです。そしてまさに、この「我ら」という言葉がもつ力強さを、あらためて噛みしめてみたいのです。つまり主の祈りは、自分一人だけで祈るものではなく、本来、皆で祈り上げる共同体の祈りだということです。共に「我ら」と祈り合うところに、この祈りの真実が極まる。

「我ら」の先頭に立つ主イエス

しかし「共に」祈るとは、必ずしも「一斉に」祈ることとは限りません。アメリカのある教会では、礼拝中、牧師が会衆席を回るということがあるそうです。一人一人と挨拶を交わす中で、ある会衆はその牧師に向かってこう言います。「先生、私のために祈ってください」。この「私のため」は、英語ではfor meです。そしてfor は、「~のため」とも訳せますが、「~の代わりに」とも訳せます。つまり、「自分でも祈るけれど、先生も私のために祈ってください」という意味以上に、「先生、私はもう祈れません。あまりに弱り果てて、祈る力も、祈る言葉もありません。だから私に代わって、この私のために、どうか祈ってください」という切実さが加わるのです。

代わりに祈る、という意味の「代祷」という伝統が、教会には古くからあります。祈ることのできないその人に代わって、誰かが祈る。主の祈りには、まさにこの「代祷」の要素があります。私の代わりに、他の誰かが「我ら」と言って、祈ってくれる。あるいは、今度は私が、あの人この人に代わって、その人のために「我ら」と祈る。私たちはそのようにして、神の家族とされている絆の中で共に祈り、また、祈られている存在です。

忘れてならないのは、この「我ら」の先頭に、主イエスが立っておられるということです。そもそも私たちは、「主イエスのとりなしのないところで、『父よ』、と神に呼びかけることは到底あり得ない」(李 仁夏、「み国が来ますように―主の祈りの断想―」⑶、『共助』1999年9月号)はずです。この執り成しの恵みによって初めて、私たちは神を、「我らの父よ」と呼べるようになりました。私たちがそう呼ぶことを願おうと願うまいと、否、そもそもそう呼ぶ資格などないほど罪にまみれた私たちの現実のただ中で、しかし主の執り成しは、嘘偽りのない必死そのものでした。私たちをご自分の兄弟姉妹とし、またご自分と同じように、私たちも神の名を「我らの父」と親しく呼べるようにし、そのようにして、共に「我ら」と呼び合える神の家族を造り上げるために注がれた主の執り成しは、文字通り、命を懸けるものでした。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8:21)。もしも私たちがこれらの言葉に躓き、そして家族と言えば、血縁関係を中心とした家族というものだけになおも固執するならば、しかし主イエスこそ、実は最も本気でこれに対抗すべく、否、これに最も豊かな実りをもたらすべく、それこそ紛れもないご自身の血潮をもって、十字架に架かってくださった犠牲を忘れるわけにはいきません。この十字架上で流された尊い血で結ばれた新しい絆は、人間の血筋よりもはるかに濃く、確かなものだからです。私たちは、この神の血筋、神の家族に結ばれて生きる者となった。まさにそのために、キリストは自ら私たちと同じ「我ら」になってくださったのです。

「あなたの名」が聖とされますように

こうして、罪深き貧しい人間の側に立って「我ら」となり給うた主イエスによって、私たちは神に向かって「我らの父よ」と呼びかける幸いを得ています。しかしさらに驚くべきことは、私たちがこの父なる神を、「あなた」とも呼ぶことのできる関係に置かれている事実です。

今回と次回にかけて、主の祈りにおける最初の三つの祈り(御名、御国、御心を求める祈り)を取り扱います。しかし実は、少し先取りしますが、これら三つの祈りに共通することがあります。

というのも、日本語の主の祈りで、「願わくは」に続く三つの神に関する文言は「御名」・「御国」・「御心」となっていますが、原文のギリシア語を直訳すると、ここは本来、「父よ」の呼びかけに連動して、「あなたの名」・「あなたの国」・「あなたの心」と言われています。つまり、神を主語とする三つの祈りには全て、「あなた」と呼びかける言葉が含まれています。言い換えれば、「我と汝」という唯一無二の人格的な交わりがそこに造り上げられている。そのような関係の中に私たちは招かれ、神を「あなた」と呼んで祈れる恵みを、主イエスに教えられているのです。

この驚くべき神との関係が成立する礎に、パウロの次の和解の福音が響いてきます。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(Ⅱコリント5:19)。私たちは、このような一方的な神の恵みに何度も立ち帰らされるところでこそ、神から贈られた「あなた」という「和解の言葉」を唇にのせて、「我らの父よ、あなたの御名が崇められますように」と祈ることが許されます。この祈りを真実に祈り始めるようになります。

ところで、この第一の祈りの「御名を崇めさせたまえ」は、新共同訳聖書では「御名が崇められますように」となっています。さらに原語を直訳すれば、ここは「あなたの名が聖とされるように」となります。「崇める」とは、「聖なるものとする」という意味です。そして「聖」とは、「聖別」という言葉があるように、「区別する」という動詞に由来します。したがって、神の御名が「聖」であるとは、私たちが求めるこの世の名声とははるかに隔たった神ご自身の超越性、また歴史における神の主権性、そして他の神々とは一切区別される神の独立性を意味する、聖書特有の神に関する概念です。

これらを踏まえてみますと、私たちが主の祈りの第一の願いを唱える時、もしかしたら、ここは「私たちが0 0 0 0 、あなたの御名を崇め、聖なるものとすることができますように」という感覚で祈っている向きがあるかもしれません。けれども、この箇所は本来、御名を聖なるものとするのは私たちではなく、神ご自身であることを第一義として心に刻むべきでしょう。「神よ、どうかあなたが0 0 0 0 、あなたご自身の御名を聖なるものとしてください」。原文が明らかにすることは、あくまでも「あなたの名」が主格であり、祈る主体である私たちによってではなく、神ご自身によってその御名が聖とされることを願うのが、この祈りの本義だということです。

こうしてみると、この祈りは、どこまでも神の前で私たちが低くされ、小さくされ、弱くされて、そのように神と真実に歩むための祈りに聞こえ始めてきます。「神を十分に崇めることができるように、私たちの信仰を強くしてください」と求める祈りではありません。「信仰心」という気高い名のもとで燻(くすぶ)っている自らの力や名声が、強くされることを願う祈りではない。むしろ、そのような高ぶりの芽さえ摘み取られながら、私たちは「御名が崇められますように」と繰り返し祈ることによって、神ご自身の力、願い、志にこそ、己をまるごと委ねる鍛錬を生涯続けてゆくのです。

神の御名は、神ご自身 「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように」(マタイ6:9)。

このように祈り始める主の祈りは、ある意味で、私たちが「化け物」になってしまう悲劇から救い出してくれる祈りだと言っても良いかもしれません。以前、「神を忘れた人間は、化け物になる」という言葉を聞いたことがあります。いささか極端な表現かもしれません。しかし神を忘れ、周りの人々の顔をも見失い、その心までもが見えなくなってしまう時、そこで暴走する独りよがりの自己実現は、人を化け物にするというのです。愛という名のもとに隠された暴力。奉仕という名のもとに潜む要求。友情を盾にとった打算。犠牲行為に燻る功名心。それらが頭をもたげてくる。そして祈りという最も美しく敬虔な姿においてさえ、私たちは神の名のもとで、あらゆる邪心を正当化しようとすることがあるかもしれません。

周知のとおり、主の祈りは全体として大きく二つに分けられます。前半は〈神のため〉の祈り。後半は〈我らのため〉の祈り。主イエスはまず、神のために祈る大切さを教えてくださいました。自分の願いや必要、あるいは不平不満を神に聞いて頂くことから始めるのではなく、まず神のために祈る。それは、私たちが「化け物」として生きるのではなく、神と人との前で、真の人として、真の人間らしく生きられるようになるためです。だからこそ、私たちは主イエスに倣って、そして主イエスと共に、「御名が崇められますように」と祈ります。その時、私たちが祈る神は、空を打つような抽象概念ではありません。私たちの知る神は、ご自分の名を隠したままの匿名者でもありません。私たちがこの方を知るより先に、私たちを誰よりも深く知っていてくださる神は、ご自分の名を持っておられる方です。

旧約聖書で一般に「主」と訳されている言葉は、ヘブライ語でYHWH(ヤハウェ)と表記されます。モーセの十戒の第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」によって、これを正確に発音することができない時代が長く続きましたが、このヤハウェ(YaHWäH)は、hayāh( 在あ る)という動詞を語源にしていると考えられます。そして神は、かつてモーセに次のように名のられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)。不思議な名前です。英語ではI am that I am あるいはI am that I will be 等と訳されます。聖書の意味する所に沿って改めて訳すなら、「わたしは、『こうあろうとする』存在になる者である」という具合になります。私たちに呼びかける神は、ご自身が「こうあろうとする」具体的な願いや意志を持っておられる方だということです。無から有を生み出す神。そして「人格神としてだけでなく、創造の働きをする神、生命をあらしめる神、出会いをうながし、契約を結ばれる聖なる神」(李 仁夏、前掲書)なのです。

ともすると、私たちの祈りは、自分の願いこそが実現するようにという祈りに傾きがちです。もちろん自分の願いを持つことがいけないはずはありません。問題は、自分の願いが大きくなりすぎて、神の願いが聞こえなくなり、見えなくなることです。自分よりも遥かに大きなスケールで全てを見通し、全てを祝福の内に善きものとしてくださる神の御心を、心から信頼しなくなることです。そのような私たちに、しかし神は、自らの名を明かしながら迫って来られます。神の御名の自己紹介は、単なる名札や表札であることを越えて、私たちとの真実なる交わりを志す神ご自身の姿にほかなりません。

突き詰めれば、神の御名とは、まさに生ける神ご自身を意味します。神がご自分から「こうあろう」とされる、その思い自体を自らの名とされているが故に、私たちは、どうかその尊い御名を、神ご自身によって聖なるもの、揺るがぬものとしてくださいと祈らずにはおられません。その時、その祈りは、次のように祈っているのと同じです。「神よ、どうかあなたご自身がこの世界の中で、この歴史の中で、そして私たちの生の現実の中で、神そのものとなってください。あなたが『こうあろうとする』その通りの姿のままで、私たちに現れてください!」。

インマヌエル

ではいったい、神はどうあろうと願っておられるのでしょうか。聖書の中には、他にも神の名を表す固有名詞が幾つか出てきます。それらを一つ一つ辿るなら、神の願いや意志をさらに知ることができるでしょう。しかし私たちが最も知らなければならないのは、ある一人を基準にして、それ以降、神のあらゆる名は一切不要となった、という事実です。ある一人。それは言うまでもなく、イエス・キリスト、そのお方です。「インマヌエル」という名で呼ばれる、このたった一人の稀有な存在を通して、神の思いが何であるかが最終的に、そして決定的に、私たちに知らされたのです。

インマヌエル。「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)。それは父なる神が、私たち人間の生の現実に留まりきる約束を、目に見える仕方で実現された出来事です。罪に生まれ、罪にさ迷い、罪に滅びるほかない私たちの悲惨な現実。それ故、愛が枯渇し、偽りの愛に破れ、なお真実なる愛に飢え渇く、まるで愛の酸欠状態のような憐れな現実。そうした泥沼のような現実に溺れながら、時に独りぼっちで、しかしまた、時に独りよがりに迷走・暴走する私たちのただ中に、神は愛する独り子を送(贈)られました。ここに世界の救い主を誕生させる御業を通して、神はご自身が真実なる神として、私たちと共におられることを決断されたのでした。それは決して、全知全能なる神の余力で起きた出来事等ではなく、神ご自身の内に痛みが伴わずにはおられない、まさに命懸けの挑戦でした。「神はいかにしても包むべからざるものを包み給うが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給うのである」(北森嘉蔵、『神の痛みの神学』)。

インマヌエル。それはキリストの名であり、神の名であり、神の真実です。神が、神そのものとなられるべく、神ご自身が「こうあろう」と決心されたその姿。それは、神が人となられたという驚くべき事件を通して、この世界に起こりました。神が神であり給う証しは、神が人となり給いしこの出来事によって、いよいよ決定的に示されたのでした。自らの名を、なおも力ずくで高めようとする私たち人間世界のただ中で、しかし神は、まことに小さき、貧しき者として、この地上に降りて来られたのでした。

まさにここに、いと高き神の栄光が輝きます。そしてここに、愛があります。神がどこまでも我々と共におられ、留まるという約束は、神の愛こそが、今ここに留まり、満ち溢れることにほかならないからです。

メリークリスマス。そしてとこしえに、インマヌエル!(続)

(日本基督教団 松本東教会牧師)