互いに真実を語れ 小淵 康而
「あなたたちのなすべきことは次のとおりである。互いに真実を語り合え。城門では真実と正義に基づき/平和をもたらす裁きをせよ。」(ゼカリヤ書8-16)
「互いに真実を語れ」。今の時代、この単純にして明快な言葉ほど貴重なものはないし、この言葉ほど軽んじられているものもない。今日のネット空間は何が真実で何が偽りであるかを不明にしているばかりか、ポストモダンの風潮は真実と虚像を区別することに価値を置き難にくくしている。
しかし、聖書のお言葉を通して、神は今の時代の私たちに「互いに真実を語れ」と命じることを放棄し給わない。真実なくして正義は成り立たず、正義なくして平和は実現されないことを聖書は繰り返して告げている。それ以外の安易な仕方で平和が地上に実現することはあり得ない。なぜか? それはこの天と地を創造し、この地上にいる私たち人間を愛される神は、真実を愛し、正義を愛する神であるからである。真実と正義について問うことなしに平和を求めるのは夢にすぎず、幻想にすぎない。
ところが、私たちはその真実を「あなたがたの門で」語り、「あなたがたの城門で」真実と正義に基づき、平和をもたらす裁きをせよ、と命じられている。「城門」とは、国会であり、裁判所でもあるが、同時に日常生活で市民が語り合い、交わりがなされる場である。私たちは毎日の生活の中で、どれだけ真実を語っているだろうか。政治家たちが真実を語らず、隠したり偽ったりすることを非難するのはジャーナリズムの使命であり、それを知るのは私たち市民である。その肝心の私たちは互いに真実を語っているのか、平和を求めるなら、まずそのことが問題にならざるを得ない。神はそのことを問うておられる。神の御目に、まず私たちの城門はどのような姿をみせているだろうか。
父親、母親として、兄弟姉妹同志として、仕事の仲間として、そして何よりも教会の友として、互いに語り合う時、私たちの城門はどのような城門になっているだろうか。派閥争いや人脈による城門となっていないか。真実と正義に挺身しようとするときにこそ蛇の誘惑は忍び寄って来る。