聖書研究

「赦しと和解」に関する聖書研究―ヨセフ物語を読み直す 小友聡

旧約聖書は、イエス・キリストによる救済以前の世界を語る。言い換えると、それは「土曜日のキリスト」(大木英夫)である。

金曜日に、キリストは十字架で死を遂げ、墓に納められた。土曜日に、キリストは屍の中にいる。「土曜日のキリスト」は、光が差さない暗黒の墓の中で死んでいる。それは私たち現代世界の現実と重なる。しかし、土曜日の死せるキリストは、もうすぐ復活の朝が来ることを証しし、絶望の中で明日を指差している。このようなキリスト到来以前の旧約聖書の記述の中に、「赦しと和解」のメッセージが浮かび上がる。そこで、創世記のヨセフ物語を取り上げ、これを読み直す。

ヨセフ物語のストーリーを辿る。ヨセフは父ヤコブの11番目の息子であったが、年寄り子であったので、溺愛され、そのため兄たちはヨセフに嫉妬した。

17歳の時、羊を飼う兄たちのもとにヨセフは父ヤコブから遣わされた。ヨセフは兄たちを見つけるが、兄たちは彼を殺そうと企てた。彼らはヨセフの着物を剥ぎ取り、穴に投げ込んだ。ちょうど、エジプトに向かうイシュマエル人の隊商が通りかかった。ヨセフを売り飛ばそうと思って兄たちが相談しているうち、たまたま通りかかったミディアン人の商人がヨセフを見つけイシュマエル人に売り渡してしまった。こうして、ヨセフは奴隷としてエジプトに連れて行かれるのである。一方、兄たちはヨセフの晴れ着に雄山羊の血を塗り付けて、父ヤコブに届けた。ヤコブはそれを見て、ヨセフが野獣にかみ殺されたと思い込み、悲嘆に暮れた。

それから13年が過ぎた。エジプトでのヨセフは苦難の連続であった。彼は落ちぶれて、ついには獄に繋がれた。しかし、まったく思いがけず、ファラオの前に引き出され、見事にファラオの夢を解き明かした。その功績によって、ヨセフはファラオの信頼を獲得し、エジプトの宰相に抜擢されるのである。宰相ヨセフの政策によって、エジプトは大飢饉の間も繁栄を保持した。ちょうどその頃、食料を求めてヤコブの息子らがエジプトにやって来る。ヨセフは兄たちにすぐ気づいたが、兄たちはこの国の宰相がまさかヨセフだとは気がつかない。そこで、創世記45章の場面となる。ヨセフは兄たちにすべてを明かした。45章3︲8節の記述は以下である。ヨセフは兄弟に言った。「私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟はヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟に言った。「さあどうか近寄ってください。」彼らがそばに近づくと、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。この二年の間、この地で飢饉が起こっていますが、さらに五年、耕すことも刈り入れることもないでしょう。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、この地で生き残る者をあなたがたに与え、あなたがたを生き長らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、神です。神が私をファラオの父、宮廷全体の主、エジプト全土を治める者とされました。

この部分はヨセフ物語の有名なクライマックスである。実に感動的な場面である。ヨセフは兄たちに身を明かし、兄弟たちはここで劇的な再会を果たした。こうして、父ヤコブにヨセフ健在の朗報がもたらされ、ヤコブの家族はその後、ヨセフの庇護の下でエジプトに客人として寄留することになるのである。

ヨセフ物語はノヴェッレ(古代の短編小説)という文学類型に属する。この物語の文学的統一性に目を向けると、物語の展開に見事な文学性が浮かび上がる。たとえば、37章でヨセフの見る二つの夢は、ヨセフがやがてエジプトの宰相となって兄たちがヨセフの前にひれ伏すことを暗示させる。実際、兄たちは「地にひれ伏してヨセフを拝した」と記述される(43:26)。夢を解釈するヨセフの神的才能が兄たちの憎しみを買い、後にそれがファラオの信頼を得て宰相に抜擢されるきっかけになるという物語の伏線は見事である。

興味深いのは、「晴れ着」のモチーフである。37章でヨセフは父ヤコブに特別な「晴れ着」を作ってもらった。これが兄たちの嫉妬の象徴であった。そのせいでヨセフはひどい目に遭う。ヨセフは兄たちからその晴れ着を無理やり脱がされ、また、血の付いたヨセフの晴れ着を見せられた父ヤコブは悲嘆に暮れた。ヨセフは死んだと思い込んだのである。さらに、ファラオの侍従長ポティファルの家では、奴隷のヨセフは主人の妻から着物を摑まれ、その着物を残してあわてて寝室から逃げ去った。ところが、その着物が証拠となって、ヨセフは有罪となり、獄に入れられる。まさしく濡れ衣であった。ここでも「着物」が重要な役割を果たしている。またしても、着物がヨセフにとって呪いとなった。けれども、それが結末ではない。ヨセフは獄を出て、着物を着替えファラオの前に立ち、ファラオから亜麻布の晴れ着を着せられ、ついにエジプトの宰相の地位に就くのである。要するに、ヨセフの晴れ着の変遷がそのままヨセフ物語の不思議な展開を説明してくれる。

45章の場面に戻ろう。ヨセフは兄たちの前ですべてを明かした。兄たちは驚愕し、言葉を失った。自分たちを歓迎したエジプトの宰相が弟のヨセフだったからである。兄たちはかつてヨセフを裏切り、殺そうと企て、結果的にヨセフをエジプトに売り渡したのであった。ヨセフはエジプトで奴隷の身となり、ついには囚人となって苦労を強いられた。彼の青春時代はひたすら苦難の連続であった。ヨセフにとって兄たちは憎むべき復讐の対象であったはずである。ところが、ヨセフは兄たちに告白したのだ。「命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです」。ヨセフは、自分をエジプトに遣わしたのは神だと証言するのである。

ヨセフ物語は虚構(フィクション)だが、イスラエルの歴史が関与している。その史実性を、セム系民族のヒクソスがエジプトを支配した紀元前二千年紀に見る学者もいるが、文献学的に実証することは不可能である。最近の歴史的考察では資料仮説はほとんど時代遅れになってきている。この物語は、捕囚期以降の歴史から解釈する必要がある。注目すべきことは、ヨセフ物語では「神」は背後に退いて姿を現さず、試練が果てしなく続くという筋書きである。その試練を試練として引き受け、どう生きるか、その決断が求められる。この特徴は、捕囚後のノヴェッレであるエステル記に類似している。この書に神名は出てこない。エステル記も虚構の物語だが、ペルシア時代のユダヤ民族滅亡の危機、その克服を描いている。ヒロインであるエステルとモルデカイはベニヤミン族の出自として紹介され、ユダヤ人を撲滅しようとするハマンはアガク人であり(エステル3:1)、イスラエルの宿敵アマレクと重ねられている(サムエル記上15:32)。この構図はヨセフ物語とよく似ている。

ヨセフ物語はやはり捕囚後の時代背景から読み取られるべきだろう。この物語ではヨセフの苦難が際立つが、それはイスラエル民族の果てしない苦難の歴史、とりわけ捕囚の経験と重なっている。また、ヨセフのエジプト宰相への昇進において、奇跡と言うほかない捕囚からの解放の経験が織り込まれているのではないか。神がどこにおられるのかわからない絶望的な「神なき時代」を「試練」として引き受け、前向きに生きるヨセフにおいて、イスラエル民族がひたすら逆境を歩む姿が重ねられ、またヨセフの繁栄は捕囚からの解放がすでに過去となっていることをうかがわせる。捕囚後のイスラエルは、帰還民による神殿再建とユダヤ教団成立を成し遂げる。この捕囚後のユダヤ教団は、旧南王国のユダ族が担い、さらに特徴的なこととしては、ベニヤミン族が加わっている(エズラ1:5、4:1)。

ユダ族だけでなく、ベニヤミン族もまた捕囚後の教団を担うという歴史的事実は、ヨセフ物語でユダがベニヤミンを必死にかばう姿(44:33︲34)において解読可能である。ヨセフという人物は両義的である。それは旧北王国をほのめかすとともに、イスラエル全体(纏め役)を象徴する。いずれにせよ、ヨセフ物語は捕囚後イスラエル民族内部の対立状況の克服を意図していると言えるだろう。暗示されるのは、ヨハネ福音書4章にも表れる、サマリヤ問題である。ヨセフの赦しは「サマリヤ人との和解」を射程に入れている。ヨセフ物語の神学的考察:赦しと和解

創世記45章において、イスラエル民族における赦しと和解が語られている。これを私たちの課題として受け止め、神学的に考察してみよう。

45章は赦しについて考察するにふさわしいテキストである。ヨセフは自分を裏切り、エジプトに売り渡した兄たちを赦した。この赦しの場面は、消えない憎しみを赦しに昇華したと言う点で感動的であり、崇高ですらある。ヨセフは煮えくり返る憎しみと復讐の思いがあるにもかかわらず、赦すという決断をした。この赦しを促したのは、ヨセフが自らの苦難の経験を括弧に入れて、自らを救済史的に回顧するという冷静なユダヤ的知性である。ヨセフは兄たちの裏切りに遭わなければ、エジプトに行くことはなかった。ポティファルの妻に偽証されることがなければ、獄に繋がれることはなかった。獄中で、ファラオの怒りを買った家臣の夢解きをすることがなければ、ファラオの前にひきだされることはなかった。そして、自らに夢を解く力がなければ、ファラオの宰相に抜擢されることなく、宰相にならなければ、ヤコブの家を飢饉から救うことはなかったのである。人の悪意や不運に遭遇しながらも、その都度、それを引き受け、呟かずに前に進んだ結果、ヨセフはエジプトで「ヤコブの家を救済する」という歴史的使命を果たすことができた。そのように、45章でヨセフは救済史的に、肯定的に自らの人生を振り返るのである。

しかし、決定的に重要なのは、ヨセフが不遇の人生を兄たちのせいだと短絡的に結論づけず、またエジプトでの成功を自分の努力や手柄だとせず、ただ神の計画と受け止めたということである。「命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。」「私をここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、神です。」というヨセフの言葉では、人生を遂行する主体は「自分」でも「兄たち」でもなく、「神」に転換している。ここには行為主体の驚くべき転換がある。これは、ヨセフにおける歴史認識のコペルニクス的転回と言ってよい。まさしくヨセフの信仰告白であり、それはヨセフ物語の著者の信仰告白でもある。ヨセフの発言は、極めて神学的な、宗教的な思考による言語である。自らの人生、その歴史が神の計画から俯瞰され、その証言として告白される。自分の人生を見守る神の眼差しをヨセフは見ることができる。ヨセフの信仰はこのコペルニクス的転回に現れる。ヨセフの人生の始まりと終わり(現在)が肯定される時に、その間の否定がすべて肯定に転換する。まるでオセロゲームのように。

この45章で言えることは、赦しとは倫理的行為だが、極めて宗教的であり、神学的だということである。ヨセフにおいて「神が私を遣わした」という主体認識の転換が起こらなければ、赦しは生ぜず、憎しみ・復讐という負の連鎖から抜け出すことはできなかった。言い換えると、信仰による決断(宗教性への転換)なしに、赦しは起こらないということである。これについては、「主の祈り」が示唆を与える。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。ヨセフの赦しは、今日、憎しみ・復讐の連鎖が続く世界を見る目を私たちが転換できるかを問うている。

この45章から、さらに、和解ということも見えて来る。赦しが和解に繋がる。赦しが和解をもたらす。ヨセフの赦しは兄たちとの和解をもたらした。しかし、ヨセフ物語において、和解は必ずしも理想的ではない。兄たちは穏やかでなかった。わだかまりがあり、画策があり、くすぶりが残る。にもかかわらず、赦しが和解をもたらしたのは確かである。和解はヘブライ語のキッペールである。これは本来、祭儀的用語で、「覆う」「罪を贖う」という意味である。「覆う」ということは、罪を覆い隠して見えなくするということ。つまり代償によって贖うことである。ヨセフ物語の文脈では「和解」に祭儀的な要素はない。しかし、ヨセフの「和解」は、兄たちの裏切り行為にヨセフ自身が覆いをかけて見えなくしたということではないか。その場合の代償とは、逆説的だが、ヨセフが経験した苦しみにほかならない。ヨセフが自らの苦しみに覆いをかけることによって、キッペールは成り立つ。つまり自己犠牲である。そのように考えれば、この和解は祭儀的ではないが、極めて宗教的だと言ってよい。

キッペール「和解」は原理的にはヘブライ語のシャロームと響き合う。シャロームは「平和」と訳されるが、契約用語であって、秩序、バランス、回復、補填、償いを意味する。キリストの十字架の贖いもシャロームである。和解によってシャロームがもたらされる。そのシャロームは、ヨセフが兄たちと和解し、平和な関係を保持することである。それは本質的にバランスを回復することだが、完全に戦争がなくなることではない。現実的には、わだかまりやくすぶりが残るのである。けども、バランスと秩序は保持される。ヨセフと兄たちが和解したとはそういうことである。決して理想的ではないけれど、シャロームはやって来る。旧約聖書では、和解は、くすぶりやわだかまりが残る中で、バランスと秩序が保たれるという仕方で成り立つ。一方が他方に吸収されたり、両者が一つに融合することではない。つまり、敵対する者同士がcoexist 共存するということである。そこにシャロームがある。ヨセフ物語において「和解」を考える場合に、以上の考察が可能となる。これは建設的悲観論と言ってもよい。

今日の世界において赦しと和解について考えるなら、ヨセフ物語の「赦し」と「和解」が放つ神学的射程は私たちに示唆を与えてくれるのではないだろうか。旧約聖書の「言葉」は、彼岸的理想を夢想するのではなく、果てしない争いと分断が続く世界に生きる私たちに、それでも希望を捨てるな、と語りかけているように思える。まさしく土曜日のキリストが「もうすぐ朝が来るよ」と無言で語っているように、旧約聖書は希望を語り掛ける。それが今、たじろいでいる私たちを支えてくれる。

(東京神学大学元教授 日本旧約学会会長。日本基督教団 妙高高原教会の代務者)