聖書研究

信仰によって神の子とされる恵み― ガラテヤの信徒への手紙  石田 真一郎

【聖書研究 ガラテヤの信徒への手紙 第3回】

「律法によるか、信仰によるか」(3章1~14節)

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(1節)。これが具体的に、どのような出来事だったのか、分かりません。しかし、ガラテヤの教会の人々に、「イエス様の十字架のみが、すべての人々に救いをもたらす」事実を、強烈に印象づける出来事があったのでしょう。内村鑑三は、「キリスト教は十字架教である」と言ったそうです。

「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが〝霊〟(聖霊)を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(2節)。著者パウロは、ガラテヤの教会の人々を福音信仰の原点に立ち帰らせたいのです。イエス・キリストがすべての人の罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさった。「この福音を信じる人は、全ての罪の赦しと永遠の命を受ける」。この福音を聞いて、へりくだって素直に信じ、洗礼を受けたことで、ガラテヤの教会の人々は聖霊を受けたのです。律法(その代表はモーセの十戒)を行ったからではありません。聖霊を受ければ、その人は神の所有に入ります。神の子となり、永遠の命を受け、救われます。

「あなたがたに〝霊〟(聖霊)を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです」(5~6節)。パウロは、ガラテヤの教会の人々が、律法を行ったからではなく、福音を聞いて信じたので、父なる神様がその人々に聖霊を注ぎ、様々な奇跡を起こして下さったことを、思い出させようとします。初期の教会では、聖霊の驚くべき奇跡が多く起こったのでしょう。パウロは、旧約聖書の偉大な信仰の先祖アブラハム(最初の名はアブラム)の先例を挙げます。神様は、おそらく85才近くになってまだ子どもがいないアブラムに、約束されました。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。~天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。~あなたの子孫はこのようになる」(創世記15章4~5節)。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(6節)。アブラムは、神様の約束を信頼する信仰によって、義と認められたのです。ガラテヤの教会の人々も同じ、私たちも同じです。

「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人(イスラエル人以外の人)は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」(8~10節)。最後の文は申命記27章26節を指すと思われます。そこには「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる」とあります。

信仰によるか、律法の実行によるか、の二者択一です。パウロは、信仰によって生きる人々は祝福され、律法の実行に頼る者は呪われると教えます。祝福と呪いが対比されます。律法の実行によって義と認められるためには、律法を100%実行することが必要です。それは全力で努力しても、イエス様以外の誰にもできません。律法の実行によって永遠の命を受けることはできないのです。100%実行できないなら、罪があることになり、神の裁き(呪い)を受けます。しかし父なる神様は、私たち罪つみびと人の全ての罪を赦すために、救い主イエス・キリストを地上に送って下さいました。「キリストは、私たちために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して下さいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(13節)。最後の文は、申命記21章23節です。そこには、「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」とあります。

イエス様は十字架にかかって、本来私たち罪つみびと人が受けるべき、父なる神様の裁き(呪い)を一身に引き受けられました。イエス様は十字架で、父なる神様の裁きと呪いの集中砲火を受けられました。私たちが神様の裁きと呪いを受けないためです。イエス様は十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイによる福音書27章46節)と叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」の意味です。イエス様は十字架で、父なる神様に完全に見捨てられたからです。私たちが見捨てられないためです。イエス様の十字架の死は、世界史上最悪の呪いと絶望の経験です。私たちがそれを経験しないために、イエス様がどん底のどん底の最低辺以下まで下られました。私たちが、本当の呪いと絶望を経験しないためです。イスカリオテのユダの死も呪われた死ですが、イエス様の十字架の方がもっと呪われた死だと言えます(ユダが最終的に救われるかどうかは、神の御手の中にあります)。

イエス様は十字架上で「呪いのかたまり」になられました。私たちが罪を悔い改めて洗礼を受けたとき、「聖なる交換」が起こりました。イエス様が持っておられた完全な祝福が全て私たちに与えられ、私たちが罪の結果として受けるべき全ての呪いがイエス様に注がれたのです。『王子と乞食』という話があり、王子と乞食が立場を入れ替える話だと思います。これに似て、神の子イエス様の祝福が全て、罪ある私たちに与えられ、私たちが罪の結果として受けるべき呪いを全て、イエス様が引き受けられたのです。

「律法と約束」(3章15~21節)

「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです」(15~16節)。

パウロが引用するのは、創世記12章7節です。「主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』」パウロはこの「子孫」はイエス・キリストを指すと教えます。ではイエス様にイスラエルの土地が与えられるのか。違います。「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」(14節)とありました。土地は祝福のシンボルです。新約聖書では、この祝福は、神の国であり永遠の命です。聖霊とも言えます。今のイスラエル国は、このことを理解していないと言えます。「あなた(アブラハム)の子孫(イスラエル民族)にこの土地を与える。」この土地がイスラエル(パレスティナ)の現実の土地を指すと考え、土地を死守するために周辺の人々と死闘を繰り返しています。旧約聖書も大切ですが、やはりイエス・キリストを中心に旧約聖書を読まないと、大きな間違いを犯すと思うのです。現代のイスラエル国のリーダーたちにも、イスラエルと敵対するハマスやヒズボラにも、イエス様の御言葉を受け入れてほしいのです。「敵を愛しなさい」(マタイによる福音書5章44節)、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(同26章52節)。土地は大切ですが、あまりにも土地に拘こうでい泥し、一切譲り合わないと、永久戦争の地獄から抜け出せません。イエス様の福音の心が浸透するよう祈るのみです。

アブラハムの子孫とはイエス・キリストを指す、とパウロは述べます。このことは、マタイによる福音書1章の系図からも分かります。あの系図は、アブラハムに始まり、ダビデ王を経てイエス・キリストに至るからです。旧約聖書の長い歴史は、イエス様を迎える準備と言えます。「わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約(キリスト誕生の約束)を、それから四百三十年後にできた律法(モーセの十戒等)が無にして、その約束を反故にすることはないということです」(17節)。「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫(キリスト)が来られるときまで、違反(何が罪か)を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者(モーセ)の手を経て制定されたものです」(19節)。あくまでも、人を生かして救う主役はイエス・キリストです。

「奴隷ではなく神の子である」(3章21~29節)

但し、律法に人を救う力はないが、律法にも大切な役割があります。「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書(律法)はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」(21節~22節a)。大切なことは、人を生かすことです(イエス様が、生まれつき目の見えない方に「神の業がこの人に現れるためである」〈ヨハネによる福音書9章3節〉と言われたように)。律法の代表はモーセの十戒で、それは私たちに神様の聖なるご意志を教えます。と同時に、私たちは十戒の一つ一つの戒めを学ぶときに、どの戒めをも100%守ることができない自分の罪に気づきます。ローマの信徒への手紙3章20節に、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」とある通りです。「それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」(22節b)。律法を学ぶことで、自分の罪を知った私たちは、自分の努力で罪なき生き方をすることは不可能と悟り、イエス様の十字架の贖いの死と復活による福音のみが私たちの罪を完全に赦す力を持っていると悟ります。そしてイエス・キリストを救い主と信じる信仰に導かれます。

「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました」(23節)。言い換えると、「キリストが現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、このキリストが啓示されるようになるまで(律法と悪魔と神の怒りと罪と死の支配下に)閉じ込められていたのです。「こうして律法は、わたしたちをキリストに導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰(言い換えればキリスト)が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係(律法)の下にはいません」(24~25節)。今は、キリストの愛の下に移されたのです。

「あなたがたは皆、(律法の実行によってではなく)信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(27節)。イエス様を救い主と信じて、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けると、神の子となるのです! すばらしい恵みです。ぜひ、すべての方が洗礼を受けて、キリストの愛の下に入られ、神の子となられることを切に祈ります。神様がそれを願っておられます!

洗礼を受けた人は、キリストを着ている! 近藤勝彦牧師(東京神学大学元学長)が『死よりも確かなものはないのか』という伝道パンフレットで、こう書いておられます。「洗礼を受けたことは『キリストを着ていること』という素晴らしい事実を噛みしめています。それはキリストの義を身にまとっていることです。もはや裸でなく、神の御前に立つことのできる『死に装束』をまとっています。キリストの義と愛と執り成しと赦し、そしてキリストの力に身を包まれて、神の御前に立つことを許されています。これもまた、この上なく確かな『死よりも確かなもの』であって、それを私の『晴れ着』として、また『死に装束』として身にまとっていると思っています。」神の御前に立つとは、死後の「最後の審判」で、キリストの御前に立つことです。「最後の審判」と聞くと、少し怖い。しかし大丈夫です。私たちは、洗礼というイエス様の義の衣を着ています。最後の審判をなさるキリストは、「キリストの義の衣」を見て下さるので、私たちは無罪の宣告を受けます。罪を悔い改めて洗礼を受けていれば、天国を保証されるので、ある意味、安心して死ぬことができます(ですが、絶対に死に急いではいけません)。

イエス様が十字架の死と復活を経てもたらされた洗礼は、死の力よりも強いのです。ですから洗礼は、天国を保証する「晴れ着」です。イエス様は宣言されます。「わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。復活のイエス様は、罪と悪魔と死に勝利されているのです。このイエス様につながる洗礼を受けると、私たちも罪と悪魔と死に勝利させていただけます。罪を悔い改めて戻って来た放蕩息子に父親が言いました。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ」(ルカによる福音書15章22節)。「いちばん良い服」こそ洗礼と言えます。

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)。へりくだって洗礼を受けることで、ユダヤ人もギリシア人も、ガザの人々もパレスティナ人も、日本人も、朝鮮半島の人々も、中国の人々も、ウクライナ人もロシア人も、神の子になれます。世界平和のためにも、イエス様を世界中に宣べ伝えることが必要です。キリスト教会の勢力拡張のためではないのです。世界中の人々が皆、神の子になることが、神様の願いだからです。世界中の人々が、イエス様の御言葉「敵を愛しなさい」(マタイによる福音書5章44節)に従えば、世界は一秒で平和になります。

今年の夏期修養会での高橋哲哉さんのお話によると、イスラエルのネタニヤフ首相は2023年の記者会見で、旧約聖書のサムエル記上15章を示唆してガザへの攻撃を正当化したそうです。そこでは預言者サムエルがサウル王にこう語ります。「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も(……)打ち殺せ。容赦してはならない。」確かに旧約聖書は聖書ですが、イエス・キリストが旧約聖書を完成なさいます(マタイによる福音書5章17節)。イエス様は「敵を愛しなさい」と命じられます。敵とは異邦人(外国人)でもあります。ネタニヤフ首相の聖書の用い方は、聖書の悪用と思います。大切なことは、聖書を正しい解釈で読むことです。ガザには聖公会の病院もあり、カトリックの学校もあるそうです。一秒も早い平和を切に祈ります。イエス様を信じて永遠の命を受けることに「男も女もない」ということは、心の性と体の性が一致しない方々も「男も女もない」に含まれると言えます。(つづく)

(日本基督教団東久留米教会牧師)