矢内原忠雄─世界歴史との格闘における学問と信仰─(序説)田中 邦夫

矢内原忠雄は、満洲事変の一年後満洲を視察旅行した時のことを回顧して、「その見聞の結果は、最初の直感通り満洲事変が日本側の作為であることを私に確信せしめ、爾来私の学問と私の信仰とは一致した力となって、私をして満洲事変に対立せしめた」(1958)と述懐している。類似の発言は著作集の随所に散見される。「私は私の信仰と学問との合致した基礎の上に、神のCause のために働いたと思う」(39)というのもある。この表現は彼の生涯を要約する最も核心的な表現であると思う。いずれにせよ「学問と信仰との共働」という在り方こそ、矢内原という存在の最も際だった特徴であった。このことの持つ意味、とくにその〈神学的意味〉を解明するのがこの矢内原論の主題である。

私の読書経験の中で、矢内原に通じる道はいく筋かあったけれども、ここでは橋川文三の発言についてやや詳しく、また徳永恂と福田正俊の発言についてごくわずかに触れるにとどめ、詳しくは「困難な信仰」に譲りたいと思う。

このように、矢内原を読むよう示唆する文章には、何度か出会って来たけれども、決定的な仕方で〈読まなければならない〉〈しかも研究的に〉という強烈な方向づけを受けたのは、橋川文三という私の最も重視する日本政治思想史家の「歴史意識の問題」(1959)と題する論文に出会った時からであった。その中で彼は「敗戦という異常な体験が、日本人の歴史意識にどのような変容を与えたか」という問題を提起し、「戦争体験論の中心的課題は、現代日本の思想伝統にまさに『歴史意識』を定着することにおかれている」にもかかわらず、「戦後の歴史過程は、ほとんど何ら日本の歴史意識に影響を与えなかった」と指摘し、「明治維新は、ある意味では歴史意識を生んだけれども、それ以上のキャタストロフである敗戦は、いまだ明確な歴史意識を生み出していない」と結論している。これはかなり重大な発言である。もし彼のいう通りであるとするなら、その持つ意味は、日本人にとって巨大であると言わなければならない。この点がよりはっきりと見て取れるのは、福沢諭吉の歴史意識と戦後の歴史意識とを対照しつつ論じている次の個所においてである。

橋川は、明治の思想家の中からとくに福沢諭吉を取り上げ、彼の「あたかも一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるがごとし」という有名な一節を手がかりに、この点を説明していく。福沢は、「一人にして」徳川と明治の二つの時代を生きた、という自己の歴史的立場の決定的優位を明確に自覚し、それに基づいて歴史の変化を自らのうちで比較考量できたのであり、その点で「確実ならざるを得ざる」ほどの強い「歴史的自信」を有していた、と橋川はいう。そこから彼は現在(1959年)に立ち戻り、福沢における〈徳川─開国維新─明治〉と戦後日本人の〈戦前─敗戦占領─戦後〉との間に一定の類比を想定しつつ、「これを私たちの身近な経験に引き寄せていえば、あたかも敗戦・占領という史上未曾有の機会をとらえて、そこから身をもって『確実ならざるを得ざる』底の歴史把握を達成しようと試みるにひとしいであろう。そして、戦後、福沢のそれに匹敵するような歴史的自信が、個人としても、集団としても、どこかでいだかれたことがあるとは私には思われない」と結論づけているのである。つまり、橋川の世代を中心とする当時の日本人は、戦前と戦後の両方を生きたにもかかわらず、その体験は明確な歴史意識としては把握定義されていない、ということである。こうして橋川は、《敗戦というカタストローフに関する明確な歴史意識の不在》とか、《敗戦を境とする戦前と戦後とを包括する「確実ならざるを得ざる」底の歴史把握の不在》という事態を、戦後日本人の歴史意識、さらには政治意識の根本問題として提起するのである。

ところで、この事態はその後も何ら変わっていないように思われる。いなそれどころか、それは今日、問題それ自体としては完全に忘却の深淵に沈んでしまっているといった方が適当であろう。だから、たとえば社会哲学者徳永恂が、「〔1945年〕以降、私にとって、厳密な意味では歴史は止まっており、時間は流れていないようにさえ思える」(『現代思想の断層』)と2009年に回顧するとき、それは、橋川文三の50年前の上記の発言と遥かにまた直接に共鳴し合っているのである。原爆の体験を含む敗戦は、今日なお日本人の「歴史意識」にとって、いわば関数上の「特異点」(関数の値が無限大に発散する点)のようなものとして、その歴史的意味づけを峻拒しつつ、忘れ去られているように思われる。橋川と徳永のこれらの問題提起は、私にはきわめて重大なものに思われた。とともに、その都度、矢内原忠雄の名が浮かんでくるのであった。だが、ここでただちに矢内原の文章に向かう前に、求められている「歴史意識」の本質的性格、その形式的特徴について、橋川が試みている予備的省察のいくつかを紹介しておきたい。それらは非常に優れたもので、矢内原の到達点の持つ意味を正確に照らし出しているように思われるからである。

橋川によれば、求められている「歴史意識」は、「戦争の個々の記録を作成する」のでも「戦争過程の体験に固執する」のでもない。それは戦争体験を「歴史過程として」ではなく、いわば「原理過程として」とらえ、「個別的ヒストリクではなくメタ・ヒストリクの立場」から「歴史に対する意識そのものの原型」を与えることを目標とする、と言われている。ここで、「歴史意識」に関して、「歴史過程」と「原理過程」、あるいは「個別的ヒストリク」と「メタ・ヒストリク」という次元の区別が導入され、求められているのがそれぞれ後者であること、さらに後者は「歴史に対する意識そのものの原型」と言い換えられていることに注目しなければならない。

たとえば日本史や世界史の教科書、また通常の学問的歴史書では、さまざまな出来事が、因果関係を主とする相互関係の中に、何らかの仕方で出来事の〈連続性〉が成り立つように配列整序されている(連続性の最低レベルが年表である)。しかし、よく言われるように実際の歴史は、そのような「大文字の歴史への還元」や「一般化的歴史への繰り込み」を拒むような事実に満ちている。たとえばヒロシマ、ナガサキ、アウシュヴィッツ、南京事件などはそのようなものである。したがって我々は、「歴史認識にはさまざまな論理次元がある」こと、そこには「視点の重層性・多次元性という問題がある」ことを念頭に置かなければならないのである(以上安丸良夫『現代日本思想論』04)。橋川が求めている「歴史意識」は、そのような「一般化的歴史への繰り込み」を拒否する次元に関わるものであり、そこにおいては通常の歴史的説明の連続性が絶たれるのである。予めこの「特異点」に関して結論的なことを述べておけば、そこではプラスかマイナスの無限大に発散するのであるから、ひとはそこで〈無限者〉の問題に出会うのであり、無限者の声を聞くか待ち望むか、それとも虚無の深淵に沈みつつ本質的ニヒリズムを押し隠し、虚偽意識と「存在の軽さ」に生きるしか選択の余地はないのである。その意味で橋川の提起した問題は〈日本人という存在の仕方〉にとって決定的に重要と言わなければならない。

続けて橋川は、「歴史意識は、キリスト教によって西欧世界に与えられたもの」であり、それは「神と人間との相互関係の戯曲」(ベルジャエフ『歴史の意味』)の意味を含み、たんに「神の啓示たるのみならず、また神のうちにおける人間の対応的啓示といわれるものが歴史であった」(「対応的啓示」については後に説明)と指摘し、求められている『歴史意識』が、本来キリスト教信仰と深く関係するものであることを示唆している。このことは「「歴史意識」の根底にあるものは、強い決断と実行の志向であることは、そのエスカトロギッシュ〔終末論的〕な起源に関連して、しばしば説明されるところである。それは、『今、此処』における主体的決断の内面に深くかかわりをもつ意識の形態である」と敷衍されていることからも明らかである。これらはきわめて重大な指摘と言わなければならない。とくに日本人キリスト信徒にとって。なぜなら、この「歴史意識の問題」が、まさに「神との相互関係のドラマ」つまり神との〈格闘〉において、日本人キリスト者によって問わるべきことが示唆されているからである。

さらに橋川は、この「歴史意識の問題」が「いかに深く現代の政治過程や政治意識と交渉する問題であるか」を指摘し、「そこに日本の近代思想史における『歴史意識の問題』が成立するもっとも切実な根拠がある」と述べ、この問題が本質的に持つ〈政治的射程〉を示唆している。言いかえれば「政治意識」の根底にこの「歴史意識」の問題がある、ということである。この点で彼が竹内好とともにとくに中心に据えるのは「敗北」の概念である。「敗北の事実が一個の歴史意識として形成される」ことが重要なのである。そして日本のマルクス主義者について「ついに敗北を自覚することのない歴史を歩んだ」と批判するとき、この言葉こそ橋川や徳永にとって、その後の日本の歴史および歴史意識一般を集約する表現となるのである。要するに彼らは《敗戦の意味を問いうる根源的地平》を模索していたのである。

およそ以上のような指摘に接して、私はそれが本質的に日本人キリスト者が担うべき課題であることを認め(橋川自身はそのようなことは言っていない)、思いは自ずから矢内原忠雄の方へ向かわざるをえなかったのである。

表題に掲げた「格闘」という語句は、矢内原が実際しばしば使う表現である。かれの〈存在の仕方〉を表すものとして「格闘」という表現ほど適切なものはないであろう。たとえば、

信仰に入って活きたる神様との交りに入るその最初は、己の罪を知って、この罪ある自分自身をどうするか。この問題にぶつかったときに、初めて神はわが神となり給う。今まで神について聞いていたんですけれども、その時から神様は『わが神』となりたもう。いわばそのときに私どもは神様に組みつくんです。神様と私どもとの取組合いを感ずる。神の力を自分に感ずる。神様が私どもの両方の利き腕を摑まれまして、私どもに体の自由を与えられない。私どもはその下にもがいて自由になりたいと思いますけれども、どうしても神様が離して下さらない。……(「ロマ書講義」41)。

またたとえば「人生と社会と、人類と宇宙との悩みに、怖れず直面して格闘するところから生まれるものは生きた生活態度だ。暗黒の中より光明を、混沌の中より真理を見出さんとの生活態度だ。これが学者に必要なのだ」(30)と、学問についても同様の在り方が求められている。彼は人間存在の本質的な在り方を、人生と社会と、人類と宇宙と、さらに神との「格闘」と見ているのであり、その典型を旧約預言者に見ているのである。「自ら苦難に沈淪し、涙をもって神と角すもう力したる経験ある者だけが、よくエレミヤの価値を認識しうるであろう」(「エレミヤ記三講」40)。同時にこれこそは矢内原自身において生きられた〈存在の仕方〉に他ならない。その本質的特徴は〈具体的な対手との具体的な関わり方〉に徹底的な注意が向けられる、という点にある。

この「格闘」から生まれるのは「発見」という新しい事態である。彼は「発見」という語句をじつにしばしば使用している。たとえば、「イザヤの発見」として「信仰」という言葉それ自体を上げ、「信仰」はじつに彼の発見したる真理である」「初めてこの言葉を聖書の中に入れたイザヤは、じつに比べようもない大発見をしたのである」という(「イザヤ書講義」36)。またエレミヤについて「これ〔新しき契約〕こそまことにヤーヴェが地上に創造せんとし給う全然『新しきこと』の発見であり、旧約の宗教において前人未踏の最高峰が達せられたのである」(「エレミヤ記三講」40)と称賛する。

しかし、「発見」に至るためには、「徹底」ということがなければならない。「イザヤ書五講」(35)によれば、我々は自分の現実の状態が不徹底でありますから、大抵の場合に信仰的にも自己弁護している。「自分はこんなに不徹底だが、それでも神の子とされて有り難い」。これも結構でありますが、この消極的態度の中には自己弁護の危険がある。自分の低い状態にまで神様を低めようとしている。しかるに神様のなさることは、神様の所にまで我々を引っぱり上げようとする。これが神様の要求であります。……しからば何のために神様がそういう態度を取られたかということを考えてみると、これは国民の救いを徹底せしめるためであると思う。ユダの罪は緋の如く赤いのだ。これを軽きことの如く扱い、簡単にこれを医せば救いが徹底しません。……ただ神だけを信じていこう、神を信じてだけ行こうと、そこまで国民の信仰が徹底するまで、神はこれを打ち給う。……徹底して神に立ち返るまでは打ちのめす。それは惨酷のようでありますが、真の愛は不徹底のままでは鞭を引っ込めません。神の救いというからには、徹底的な救いでなければならないと思う。……

神の審判は徹底的に行われます。それは人の罪が大きいからであります。……神の全経綸が救いの徹底にかかっております。我々キリスト者は……神の聖なること、我が罪なることを知り、神は聖にいますが故に徹底した方法をもって人を救おうとして下さるのだということを、信じます。

この個所は、矢内原の信仰的洞察がその最も深い地点に到達した個所の一つである。「神の救いというからには、徹底的な救いでなければならない」。「神の審判は徹底的に行われます」。「神の全経綸が救いの徹底にかかっております」。それらはまさに「惨酷のようで」あるけれども、現実の歴史と人生の〈苛烈さ〉に耐えうる深い洞察力を秘めているのではないだろうか。それらは、〈神との格闘〉が同時に〈世界歴史との格闘〉と表裏していた人の、壮絶な実際経験から発した言葉として理解されねばならない。

橋川論文を、本来日本人キリスト者が「神との相互関係のドラマ」において取り上げるべき課題であったと認め、それを矢内原忠雄において検討しようとしたとき、そのかたわらに自ずから〈共助会の歴史の吟味〉という課題が浮上して来るのは避け難いことであった。時間的には平行するが、行論の都合上、後者の方から入りたいと思う。

『基督教共助会九十年』(『九十年史』と略す)(76頁)には、戦前諸先輩(奥田、本間、山本その他)に共通した見方として次のような発言が引用されている。

私どもの救われた魂はまずこの神の国の幻に目覚めねばならぬ。……この聖なる幻に促したてられてくる祈りに我らの教会が勝ちとられ、国の教会が勝ちとられ、また他の国々の教会が勝ちとられるならば、……。ひるがえって国と社会の中に目を転じよう。国家組織・社会組織の科学的研究も必要であろう。その歴史性の研究も必要であろう。しかしそれにもまして必要にしてまた教会の負わされた任務は、教会がこの聖なる幻に勝ちとられ、その生命が国家社会の根底に滲み出て、これを潤すに至らんことである。

この個所にはいくつか問題にすべき点があるように思われる。

聞くところによると、すでに京都共助会ではこの個所の問題性が指摘されたという。私も、これまで述べてきた視点から、いくつか問題点を提示したいと思う。

まず第一に、これらの発言と、同じく『九十年史』に見える佐伯倹の次のような、それと反対の発言(83頁)とを、二つ並べ、両者を組にして評価する必要があるということである。「しかしより害毒の甚だしいのは信仰が害されているのを基督者が少しも気づかない時である」。これら二つの発言では、両方とも〈浸透〉が問題にされている。一方は教会から国家へと、他方は国家から教会へと、互いに逆向きに、それぞれの持つメッセージのいわば〈浸透〉が問題にされていると言える。そして後者の発言は、国家からの方がその浸透圧がはるかに強く自然だ(=気づかれない)、と言っていることになる。しかし、この〈浸透圧〉という表現はいわば比喩で、この事態が含む問題性を分析的に明らかにするものではない。「教会と国家」という問題の立て方は、信仰が政治と関わる地点では通常の問題の立て方であるが、じつは、この問題の立て方には大きな問題があるのである。概念構成がきわめて不安定なのである。昨年の修養会の折にも述べたことであるが、いかなる人間も〈つねにすでに文化内存在〉であり、言いかえれば〈つねにすでに社会内存在〉だという事実がそこにはある。そして〈つねにすでに社会内存在〉だということは、近代以降〈つねにすでに国家内存在〉だということを意味する。教会に行こうが行くまいが、この事実に変わはない。〈国家内存在〉は〈教会内存在〉に時間的にまた存在的に先行するのである。つまり、国民であることは避けられないが、教会員であることには選択の余地があるのである。しかし価値的にはそうではない。したがって〈教会内存在〉と〈国家内存在〉とは、一人の人間の中でつねに闘争状態にあることになる。ここからこの問題の立て方の不安定性が生じる。我々は、神の国へのこの徹底して厳しい〈地上的出発〉を受け容れなければならない。(やがて述べるように、そこは、ボンヘッファーの「此岸性」、ハイデガーの「世界内存在」、カッシーラーの「シンボル形式としての文化」、矢内原や福田正俊の「実際問題」、デリダの「脱構築」などの概念が輻輳する地点なのである)。

第二の問題は次の個所である。「国家組織・社会組織の科学的研究も必要であろう。その歴史性の研究も必要であろう。しかしそれにもまして必要にしてまた教会の負わされた任務は……」。「教会に負わされた任務」ということで、個々の教会の日々の任務が考えられているのであれば、問題は小さい。しかしこの文章が掲載されたのが『共助』であることを考えると、「教会に負わされた任務」が〈教会全体に負わされた任務〉、したがって〈共助会に負わされた任務〉を意味する可能性が出てくる。そうすると大きな疑問が湧いてくる。なぜなら、この「国家組織・社会組織」の問題こそ「キリスト教と文化との関係交渉」の問題の最大のものであり(南原繁)、それゆえ森明が考える意味での共助会が担うべき課題だからである。「キリスト教と文化」という場合の「文化」とは、いわゆる上部構造としての〈文化〉のみならず、下部構造としての〈社会〉や〈国家〉をも含め、その全体が意味されているのである。「国家組織・社会組織」という下部構造は、その在り方を法律や習慣や社会観念などの上部構造によって規定され浸透されているがゆえに、両者は決して切り離しえないのである。

しかし、それにしても、なぜこれらの問題が「キリスト教と文化の問題」であること、したがって共助会が検討すべき課題であることが見落とされたのであろうか。随分長い間気になって来たこの問題について、行論の都合上、現在至っている暫定的結論だけは述べておきたい。

この問題を考えていくと、ある疑問が自ずから湧いてくる。それは、山本・奥田・本間その他かくも多くの諸先達が、ほとんど一致して同様の見解を抱くようになったのはなぜなのか、という疑問である。現在私がどうしても考えしまうのは、「高倉神学」という強烈な磁場の存在である。たとえば上記引用の奥田の文章にも、その影響は語法的にも文体的にも歴然としている。たとえば「勝ちとられて」「促し立てられて」など。しかし私にとって問題なのは、そのような表面的なことではなく、高倉神学には〈キリスト教と文化〉ないし〈信仰と理性・学問・科学〉といった問題について、ある根本的な混乱ないし誤解があるのではないか、そして諸先達も何らかの仕方でそれに巻き込まれたのではないか、という疑問である。この疑問は、矢内原研究の途上、歴史的に重要なこの時期における〈時代に対する関わり方〉の問題として、避けがたく浮上してきた問題なので、少し詳しく触れておきたい。

「自我追求者としての彼〔高倉〕の生涯と戦いとが大正、昭和時代の思想界に及ぼした影響の小さくないことを記憶して、その意義を歴史的に追究したいと思う」。これは、親友石原謙の高倉徳太郎論「キリスト者の自我追求」(64)の一節である。この論文は、高倉の死後三十年後のもので、かなりの苦心と配慮の跡が見える。最後まで友情を尽くそうとする人間石原と、信仰上神学

上の問題についてはあくまでも厳密であろうとする学者石原との、長く続いたであろう内的対話の〈きわどいせめぎ合い〉(「これについては、私はこれ以上追及したくはない」という発言も見える)から、それはなっているが、全体としては非常に厳しい結論に至っている。しかし、私が取り上げたいのはそれとはやや違って、高倉神学の根底にあって無反省に前提されているある素朴な考え方についてである。『福音的基督教』(27)のある重要な一節を取り上げてみよう。

それで現代のキリスト教にとっての最大の問題は、二つあることになる。第一はキリスト教とは何ぞやという真理問題をいま一度我らが真剣に考え直し、これを体験し直すことである。第二はキリスト教と一般文化との関係を思想上から、実生活の上から明らかにし、キリスト教の文化に対する使命を徹底せしめなければならない。しかも第二の問題は第一の問題が真に解決せられなければ、それをいか取扱うかが答えられないであろう。ゆえに現下のキリスト教界の最大の問題は、キリスト教とは何ぞやという問題を信仰と思想と生活の上において新たに解決することであると信ずる。

これは、高倉神学の根本テーゼであり、その思想はこのようにキリスト教の本質という真理問題を唯一の中心軸として展開されている。一読してこのテーゼはもっとものように思われる。しかし、これまで何度か述べてきたように、ひとは〈つねにすでに文化内存在〉なのではないか。つまり人は、自らがそれによって形成された文化の中から問い始めるのではないか。たとえば日本人は、日本のこれまでの言語文化や、その他あらゆる文化形式を通して聖書の言葉を受け取り、その言葉に問いかけ、従来の文化価値を越えてある経験をするのではないか。そこには〈文化を通して+文化を越えて〉という動的構造がある。これが「文化の常識より見たる」という森明の言葉の意味であろう。つまり人は、「キリスト教とは何ぞや」という問いを、文化抜きの純粋透明空間で問うているのではなく、つねに彼が生い育った分厚い具体的な文化空間の中から問うのである。したがって、第一の問題と第二の問題とを切り離すことはできない。ただ一つの問題があるだけである。「キリスト教と一般文化の関係」という問題は、信仰者にとってキリスト教信仰そのものの問題としてきわめて切実なのであり、第二の問題としてそれに付加されるような附録的問題ではないのである。それを分離しうるかのように考えるのは、言語を透明なものと考える錯覚に由来する。彼のこの立場は、理論と実践、原理と応用という二分割を本質的に許容するが、この分割は非人格的領域に関するものであって、人格的信仰とは相容れないのである。彼の理解は、森明が「文化意識とキリスト教意識との関係交渉」という形で提起したものとは明確に異なると言わねばならない。私は、高倉徳太郎は森明の問題提起を見誤ったと考えている。むしろ森明は初めからそれを危惧して「教導を請うた」(「涛声に和して」)のではないかと思っている。

もう一つ重要な高倉の文章を取り上げておきたい。「キリスト教と文明の精神」と題された有名な講演の一節である。この講演は、多くの人々によって内村を超えるものと評価されたものであるが、私にはどうしてもそうは思えないのである。森明亡き後、東京市内外学生大連合礼拝(25)において、内村鑑三とともに立って、いわゆる「弔い合戦」をした時のもので、森明が「涛声に和して」で高倉に提起した問題に、彼なりの仕方で応えたものである。

現代文明を強く支配するものは科学的精神である。……科学的精神は、空理空想を排してどこまでも赤裸々な真実を求めんとする心である。科学的精神は真理の前に謙虚であり、真実を畏れない、正直な、真摯な、勇敢な心を与える。現代の若き人の、自己にどこまでも忠実ならんとする心には、科学的精神がどこかにただようていると思う。しかし科学教育はいろいろな思わしからざる影響をも、現代文明に与えている。まず科学は事実をどこまでも重んじ、証拠をどこまでも求めんとする。ものを批判的に見、何にでも疑ってかかろうとする。かかるところから、現代の懐疑的傾向が生まれてくる。現代文明は光と確信との乏しい灰色の文明である。次に科学は自然法すなわち因果の鉄則によってすべての現象を説明せんとする。科学よりすれば宇宙の森羅万象は因果法によって支配されている、すべては必然によって動いてゆく。ここに機械的な、宿命的な世界観、人生観が生まれて来ざるを得ない。科学の上からは人格とか、自由とか、価値とかいう事実は説明することはできない。……

かくして「現代の若き心をおかしつつある宿命的な気持は、科学的教育の一つの結果であって、真剣な道徳的生活をなしていくことを困難ならしめる」。また「科学的精神のみが支配するところに、無限とか、永遠とか、絶対とかの天地を容るる余地はなくなる」、そこには「永遠の神は宿らない。科学的、歴史的相対主義は現代人の心から宗教を追い払おうとしている」。「科学的な考え方は、ともすれば唯物的な見方で世界と人生とを観るようにせしむる」。さらに適者生存を説く進化論という科学によって「個人主義的な傾向が助長せられ……現代は自我の覚醒、自我の解放の時代」となる。そして「自我の極端な力説が、個人主義、虚無主義、無政府主義と進んでゆく」のは避けがたいことだという。こうして現代文明は、科学文明・機械文明・産業文明・物質文明という本質的性格を有することになるが、それだけでは人間の問題、社会の問題は解決せず、「健全なる文明は礼拝の精神の上に建てられねばならぬ」「ここにキリスト教の現代文明の精神に対

する使命が存する」と結論するのである。

以上の文章は私にはきわめて大雑把で混乱したものに思える。彼自身の内部でもはたしてさまざまな問題がうまく整理されているのであろうか。そもそも社会現象を自然科学の影響だけで説明するのは本質的に無理である。とくに当時の人々が直面していた社会問題の独自の複雑性に対する感覚はまったく感じられない。石原謙が言うように、やがて彼はこの立場を放棄し、上記『福音的基督教』の「キリスト教とは何ぞや」という問題のみに閉鎖する方向に復帰していくが、それも彼の神学構成(問題の二分割)からは論理的に必然的な道なのである。ここでは科学ないし科学的精神という問題について、矢内原と最も鋭く対立する論点なので、少し詳しく取り上げておきたい。

彼はそもそも科学を全体としてどのように評価していたのであろうか。この点が彼自身の中でうまく収まり切っていないのではないかと思われる。文中、科学そのものの問題が、科学を学ぶと懐疑的で宿命的な人間になりやすい、という問題にすり替えられ、その批判という形で論が展開されている。しかし、そのようなやり方では何ら科学の本質について語ったことにはならない。たとえばM・ファラデーの電磁場の発見からJ・C・マックスウェルの電磁場の方程式の発見に至る過程は、物理学史において最もブリリアントな物理思想の冒険の歴史であったけれども、彼らは二人とも素晴らしいキリスト信徒であった。マックスウェルは散歩の折、貧しい人や病いの人の家を訪ねては話し相手になったり聖書を読み聞かせたりなどして、彼らから深く愛されていたという。だから問題は、科学の挑戦によって苦もなく唯物的になったり懐疑的になったり、利己的、機械的、宿命的になったりする日本人の精神の〈思想的なひ弱さ・未熟さ〉の方にあるのではないか、という疑問が湧いてくる。そこには「格闘」の精神が欠けているのである。ある科学思想史家は、日本科学思想における「対決の回避」について語っているのである(村上陽一郎『日本科学思想史』)。

また高倉は、現代文明を科学文明、機械文明、産業文明、物質文明等と呼び、その上で、現代の難問をすべて科学に起因すると考えているけれども、それはかなり皮相な問題把握と言わざるをえない。日本人の多くは「科学技術」といって、科学と技術とを無反省に結びつける傾向が強いけれども、これは西欧において科学と技術が結びついた19世紀後半以降にそれらが同時に日本に輸入されたことから起こった日本独特の西洋科学の受け取り方なのである。西欧においては「学問と技術の相互依存関係は19世紀後半まで存在しなかった」、「19世紀後半に科学が工業社会の生産力に格下げされていった」(J・ハーバーマス)のである。実際、産業革命の過程に「オックスフォードとケンブリッジは何の寄与もしていない」(山本義隆『近代日本150年』18)のである。それ以前、科学は何であったかというと、それは何よりも自然や世界についてのある見方、自然観・世界観なのであって、その最大の功績は、神話性・魔術性・呪術性からの世界の、また人間精神の、解放にあったのである。自然を美と調和と法則の世界として新たに「発見」したのである(「自然の発見」)。だから、明治の初めに若くして西洋科学に接した人びとの多くは「日蝕や月蝕は日や月の苦悩疾病だと言われていたが、その法則が明白になった。彗星というものは凶事の使者と信じられていたが、何でもないことになってしまった」(木下尚江)とか、「太陽は毎日東より西へ天空を走る者で、一日に金のわらじを三足も要するということを信じていた」(片山潜)といった驚きの経験を語っているのである。

また以上のことと関連して、高倉には疑いや懐疑、疑問、問い、批判といった精神現象についてある種の先入見が感じられる。〈信仰〉と〈懐疑〉ないし〈不信〉とを、まったく純然たる二項対立として、信仰には懐疑が含まれず、懐疑にも信仰は含まれない、という見方である。しかし私には、旧新約聖書を通して日々教えられるところでは、疑いや疑問はある仕方で力強く肯定されている、という印象がある。矢内原のエレミヤ註解の「自ら苦難に沈淪し、涙をもって神と角力したる経験ある者だけが、よくエレミヤの価値を認識しうるであろう」にもそれは感じられる。重要なのは正しく疑うことであり、徹底的に問うことではなかろうか。神の言葉は、人間精神の直接的安定状態にある根源的な動揺を引き起こす。あのように深い神との対話に生きたエレミヤは、「心はよろずのものよりも偽るものにしてはなはだ悪し誰かこれを知るをえんや」と、いわば底なしの自己懐疑に到達したのである。神とその言葉への信仰は、自己自身への懐疑と不信、自己懐疑゠自己不信を生み出す、という構造がそこにはある。神との対話が、エレミヤに神の全き至高性を知らしめ、それを媒介として、また判断基準として、彼は自己の無なること、罪なることを自覚するのである。しかもその懐疑は神について抱く自分自身の観念にも及ぶ。信仰は、それ自身の内部に自己懐疑⇄自己修正の契機を含んでいるのである。森有正はこのような事態について「信仰と不信仰は双生児である」といったのであり、またN・ホーソーンは親友H・メルヴィルについて「信仰にも不信仰にも満足しない」と形容し、ドストエフスキーは「我が信仰は懐疑のたぎる坩堝の中で鍛えられた」と述べたのである。信仰は、神の言葉との「格闘」を通して安定状態を突き崩され、自己を超えてさらに成長するダイナミズムを内に秘めている。矢内原の「格闘」から「発見」に至る過程もそれ以外のものではないであろう。

しかし、最も重大な問題は科学についての彼の評価の基本的性格にある。たとえば次のような事実がある。明治政府は土着の民間信仰などの呪術性を克服するために、初等段階で西洋科学教育を一旦は導入するが、明治十年代の自由民権運動の高まりを受けて、批判精神の成長を恐れ、新教育を廃止するに至る。科学的思考の社会的影響、その批判精神が成長して体制それ自体に向けられるのを恐れたのである。科学が由来する理性的批判精神は、あらゆる人間の理性における同一性を前提とするものであるから(初期ギリシア哲学者ヘラクレイトス:「理性は共通なもの」)、本質的に民主主義的で、明治専制体制とは相容れなかったのである。高倉の科学に対する立場は、この意味で政治的社会的には保守的役割を演ずる可能性を内包すると言わざるをえない。

しかも、科学の社会的政治的役割というこの論点は、この講演の時期以降の世界的な思想潮流のドラスティックな変貌という事態を考えるとき、より一層重要な問題であったことが判明する。当時人々の思考様式は全世界的に神話的様式の方に激しく移動しつつあったのである。この〈思考様式の激変〉という事態を主題としてE・カッシーラーは晩年『国家の神話』(46)を遺した。冒頭、世界は「過去三十年間、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期に、政治生活と社会生活の深刻な危機を経験したばかりではなく」、とくに「政治的思惟の諸形式が急激に変化するのを体験した」と述べる。その「もっとも重大な、そしてもっとも気遣わしい特徴」は「神話的思惟の力の出現」であり、それが「合理的思惟に対して優位を占め」「明白かつ決定的な勝利を獲得したかのよう」であったと述懐し、「政治的地平線にかくも突如として」現われた「この新たな現象」とは何なのか、と問うのである。

この激変は、当時の日本についてもしばしば指摘されている。すぐれた日本経済史家中村隆英の『昭和史』は、それを次のように形容している。「大胆にたとえれば、日本の社会が平面の上に乗っていて、そのなかで、左翼から右翼までが座標軸上に位置づけられているとしたとき、その平面自体が右方に地すべりを起こしたとしよう」と譬え、「1931年秋からの一、二年の間に、日本の社会状況はなだれを打って右側に移動した」と述べている。そして「この平面の移動を見ることができた」のは、「非転向の共産主義者や、労農派マルクス主義者や、冷静な自由主義者やキリスト者などの少数の人々であった」というのである。これは政治的な局面についての発言であるが、思考様式の面についても同じことが言える。なぜなら右翼の政治思想の本質はその〈神話性〉にあるからである。つまり、この時期の思考様式の激変は〈科学的合理的思考(あるかなきかの)から神話的形而上学的思考への、思考様式の地滑り的な移動ないし退行〉であったのである。矢内原もそれを「あれよあれよという間に」と形容している(後述)。ナショナリズムからウルトラ・ナショナリズムへの激変である。我々は、その事例をさまざまな領域に見ることができる。たとえば北一輝、石原莞爾、その他さまざまな右翼の思想家たち、『国体の本義』、さらには今泉源吉の「みくに」運動に至るまで、その思考様式を根底で規定しているのは〈神話的思考様式〉なのである。そして神話的思考の本質的特徴が〈科学の忌避〉にあることは言うまでもない。そして私は、高倉は科学が最も必要とされているときに〈科学的批判精神の社会的政治的役割〉を認め損なった、と思うのである。ここで神話と科学について少し説明しておきたい。

神話については少なくとも次の二点を念頭におくことが大切である。まず、一つの神話体系の構成要素としては、都合のよいものであれば何でもよいが、都合の悪いものは激しく排除する、ということがある。したがってまた、それら構成要素の相互関係は、いわばパッチワークを構成する布の端切れのように、何ら必然的関係がなくとも結合されうる。レヴィ=ストロースはそれを「ブリコラージュ」(やっつけ仕事・つぎはぎ作業)と呼んで原始的思考の本質と考えた(『野生の思考』)。さらに、一つの社会集団の何らかの危機に際し、そのパッチワークを「聖なる天蓋」(P・L・バーガー)としてその社会集団にかぶせ、それを聖化する、というのがその中心的機能である。いわば自民族聖化機能である。戦前そのような役割を持たされた『国体の本義』について、西園寺公望は「中を見ると神話もあれば歴史もある、宗教もあれば哲学もあるという風にすべてを混同していて、まるでなんだかわけの判らないようなことを書いて来ておる」と酷評したという(中村隆英)。またそれは思考のパッチワークであるから、破綻しても、次の危機に際しては、使えるものならば何でもリサイクルされるという特徴がある。それらは無限に再生するのである。これらのことは、ナショナリズムのウルトラ化に際していつも起こることである。しかしもっと正確に言うと、それらはいつも我々の周辺にまた我々の中にウヨウヨしていて、危機と恐怖の時に強烈に再縫合されるのである。その有名な例が、近くはオウム真理教徒における高度な理系知識と終末論的神話との、少し遠くは岡潔における高等数学と「世界史にまたがる雄大な偽史への信仰」(橋川)との、パッチワークに他ならない。しかもそれは、無神論の共産圏でもありふれていた点で、神話の自己聖化機能は人類に共通の現象と言えるのである。今日でも世界各地の、また文明の最先端を行くアメリカの、宗教原理主義はそのようなものである。現代人は、自らそう思っているほど原始神話時代からそう遠くへ来ているわけではないのである。

これに対して、科学的精神というのは、基本的にはそんなに難しいことではない。矢内原が上げている例でいえば、毛織物の原料となる羊も満洲にはいるという、当時の帝国主義的希望的観測に対して、彼自身実際に満洲に赴き、その羊を見聞した結果、満洲の羊は食用や皮革用として飼育されてきたため、その毛は短かすぎて毛織物の原料にはならない、品種改良をするにしてもかなりの年月を要する、という事実を発見したように、どこまでも実地・実際・現場の事実に基づいて考えをすすめる精神、を言うのである。ホワイトヘッドという哲学者が、近代科学の本質を「還元不能で頑固な(irreducible and stubborn)ものとして事実に突きあたること」といったのはその意味である。それは考えたり思ったりではどうにもならない現実的事実の次元を指しているのである。

ここで思い出されるのは「とりわけ実際問題に処して未熟であったことを心より恥じた」という福田正俊の戦後(46)牧師辞任の弁である(『九十年史』108頁)。他方、矢内原には「二、三の実際問題と基督教」という学生連合礼拝講演(33)がある。この二つは、私の中で、上述の意味において結びつくのである。それは、ほとんど戦前の全思想的課題を集約するような総括性を秘めている。どういうことかというと、当時日本が直面していた問題は、目の前の難問を《実際上また具体的にどう解決するか》という徹底的に〈実際的水準〉の問題だった、ということである。分かりやすくいえば、たとえば高倉が「礼拝の精神の上に健全な文明を」というとき、それは〈実際上また具体的に〉どうすることなのか、という水準の問題なのである。この《実際的水準への徹底した集中》こそ、我々が矢内原忠雄の『満洲問題』において見るものである。矢内原の科学的精神への言及は、以上のような当時の日本人一般の〈科学の忌避〉、また〈実際問題の神話的忘却〉を背景に理解されねばならない。

こうして我々は、矢内原の次の発言を理解できる地点に到達したことになる。「学問的精神の希薄こそ敗戦の根本的原因の一つであるのみでなく、そもそも愚かな戦争をしたことの根本的原因である」(46)。これこそ、戦後の矢内原の衷心からの述懐であった。しかも、彼はすでに満洲事変の勃発とともに「余が本書において試むるところは……満洲問題の性質および傾向の学問的認識ならびに批判である。……いわゆる非常時の混沌の中にあって、最も必要なるは問題の性質の学問的認識でなければならない」(『満洲問題』34)と述べていたのである。このような立場から「学問は世界完成のための人間の営みの一つである」というような驚くべき断言も出て来ることになる。このように我々が矢内原の世界に赴くとき、科学についてのいわば風景はまったく一変するのである。そしてこの「学問的認識」の社会的重要性という論点が、最も先鋭に共助会の諸先輩の見解と対立するのが、じつは、先に取り上げた「国家組織・社会組織の科学的研究」「その歴史性の研究」という問題においてなのである。矢内原は、戦後、戦争に至った日本の国家組織・社会組織の根本問題について、次のように述べている。

……従来のわが国はこれらの点において、デモクラシー発達のための十分な基礎を有しなかったのである。一方において封建的性質の残存する農村、中小商工業、土建請負業等の広汎なる階層があり、他方において高度に発達した独占的金融資本の成立を見たところの跛行的なわが国社会は、デモクラシーの育成せられる環境としてよりもむしろ全体主義の基礎として適当であった(「平和国家への道」46・8)。

ここに見られるのは、通常「デモクラシーの物質的ないし経済的基礎」といわれる視点である。政治体制の相違の根底に物質的経済的構造の相違を見る点でマルクス主義的な視点である。国家や社会の在り方についての彼のこの見方は、戦前から少しも変わらない。以下の論考は、多少難解なこの引用文を解説し、その社会科学的意味および信仰的意味を解明することにある。日本近代史の根本問題がそこに圧縮されているからである。焦点は、しばしば論及される「跛行的日本社会」とか「日本社会の跛行的状態」という点にある。おおよその意味を予め述べておけば、それは、農村部の〈地主─ 小作〉関係、都市部の〈資本─ 労働〉関係、それぞれにおけるきわめて抑圧的な封建的搾取関係の確立と、それと対照的に都市部中産階級および上層階級における表面的に近代的な社会関係の創設、これら二つが並立しつつしかも構造的に後者が前者の犠牲において成立しているという、きわめて不安定な国家社会構成が問題なのである。簡単にいえば、明治国家は、農村部および都市部下層社会に、江戸時代よりもさらに抑圧的な封建的搾取関係を導入し、それによって表面的に一応の近代化を成し遂げた、ということが持つ問題である。しかし、なぜそのようにならざるを得なかったかという点については、「近代化」の基本構造について、ある程度世界史的な理解が必要である。

あとがき

京阪神修養会でのいわば総花的な資料紹介を文章化することは、紙数の関係上無理なので、また焦点がぼけてしまったという反省もあるので、ここでは、もともと「困難な信仰」の中で矢内原論の前に取り上げる予定であった二、三の論点を挿入し、矢内原の信仰的立場の基本的特徴である学問(科学)性についてだけ素描した。(前鹿児島大学哲学教授)