今、ここに、生かされている 鈴木善姫

 【誌上 一日研修会 講演2】

・はじめに

この執筆のテーマが、私の歩みということですが、当時には私だけの特別な経験のように思われたことも、今振り返ってみると、形は違っても誰もが辿って来たことのように思われます。ここに記すほどの内容ではないかもしれませんが、いくつかのことを書いて、今、ここに生きる、私の信仰告白につながればと思います。

・神学校に入る

私が神学校に入る前に通っていた教会は、韓国のソウルにある小さな教会でした。世界宣教教会という教会の名前から分かるように、開拓伝道を始められた当時の牧師は世界宣教のビジョンを強くもっていました。午前は礼拝を守り、午後3時からは、それぞれの教会での礼拝を終えた人たちが集まり、海外で働いている宣教師たちを招いて宣教報告とメッセージを聞いたり、時には海外宣教に関するビジョンを持っている人たちの証しなどを聞いたりしました。その後はいくつかのグループに分かれて共に祈りをささげる時間をもちました。

そのようなこともあり、私は自然に海外宣教の夢をもつようになり、伝道者としての道を決断して神学校に入ることになりましたが、両親の反対は大きなものでした。それに耐えられなくなった私は家出をして、祈祷院というところにしばらく身を寄せていました。

両親が私を探し回ってくたびれた頃、家に帰ったら、母は私を抱いて大泣き、父は黙って自分の部屋に入り、その後からは表面的な反対はなくなり、無事に神学校に入ることができました。

・韓国の民主化の中で

私が神学校生活をしていた時期は、軍部の勢力を用いて政権を獲得した全斗煥大統領の時代でした。その政権に抗議していた光州の市民や学生たちを武力で制圧し、それに対する抗議活動は全国に広がっていました。特に、キリスト教界では、民衆神学、解放神学、フェミニスト神学の影響もあり、また全秦一という労働者が労働の環境改善を訴えながら、焼身自殺をしたことも重なり、政権に対する抗議運動は学生だけではなく多くの市民も合流し激しくなっていきました。その中で教会や神学生の中でも信仰者のあり方に関する様々な見解がありました。

ある日のことです。学生運動で捕まり、牢から釈放されたばかりの一年先輩の男子学生と一緒に学校近くの食堂に行く途中で、クラスメイトの一人に会いました。「わたしたち食堂へ行くけど、一緒に昼食しないか」と彼を誘ったところ、同行することとなりました。昼食の最中のことです。クラスメイトの人が先輩に向かって言いました。「先輩は学生運動で牢に入れられたようですが、私は今の時代を憂い、徹夜で祈りをしています。信仰者は神様に熱心に祈ることが大事で、政治に直接に関わるべきではないと思います。」先輩は言いました。「あなたが徹夜で祈っている間に私は徹夜で今の政権の不条理と不当性に関することを記したビラを作り、配っていた。神様は人間の手と足を通して働いてくださるのだ」。二人は激しい口論になり、ついには喧嘩になってしまいました。私は二人の間で叫びました。「ねえ、半分祈って半分行動すればいいんじゃないの」。険悪な雰囲気ではありましたが、何とか食事を終え、無事に別れることができました。後で考えてみると、私の話は間違っていました。

半分祈り、半分行動する、信仰的な行いはそのような量的なものではなく、み言葉による祈りによって始まり、その祈りは行動になり、行動によって祈りが深まる、循環のような、どっちも欠けてはならない、それが信仰者の姿であると思います。

私は学生運動に深く関われば関わるほど、自分が歩む道はこれではないという疑問が湧いてきました。そこには自分の召命の問題でありましたがそれに加えて信仰的、神学的な疑問や悩みも多くありました。

悩んだ末、先輩に、私はここで運動を辞めたい、私は海外宣教のビジョンをもっている。その準備に励みたい、と伝えたところ、あなたは目の前が火事になっているのに、それを消すことはしないで逃げようとしている、と言っていた先輩の冷たい視線を今も覚えています。

神学校を卒業後、ソウル近郊の教会員150人くらいの教会に伝道師として働くこととなりました。

・信仰のあり方を問いつつ

韓国の教会としては小規模ではありましたが、伝道師として日曜日の朝から晩までの奉仕はもちろん、毎日の朝5時からの早天祈祷会、そして家庭訪問、教会が幼稚園と老人大学を兼ねていたので、その活動の補佐や地域の人たちとの交流などで多忙な日々でした。自分を充電することなく放出ばかりしているような感じで、いつのまにか自分の中が空っぽになった感じで、自分が出す言葉、声さえも聞きたくないような状態になりました。2年が終わる頃には喉が詰まったような痛みを感じ、声が出にくくなってしまいました。病院で精密な検査をしても、喉の腫れ以外には原因が分かりませんでした。やむを得ず、仕事を辞めた私は神様に癒しを求めて、祈りによって癒しの奇跡を行うところを転々としました。

癒しの賜物を持っている人々を訪ねて祈りを受けたり、接しながら、韓国の教会に深く浸透しているシャーマニズムの影響を感じることができました。考えられない、異教徒的な儀式さえ用いていました。もちろん、韓国教会のごく一部の教会や牧師、信徒たちとの接触ではありましたが、御利益信仰や異教徒的な慣習などがキリスト教を変質させ、病ませているのをみました。

・来日する

突然脳梗塞で倒れた父の見舞いに来た、父の日本人の友人の誘いで日本に来ることができました。海外宣教への希望を持っていた私には、これが神様の御導きであることを確信しました。しかし、ひらがなしか覚えていない状態での来日でしたので、言葉が通じない日本での生活はいろいろ辛いことが多くありました。それを乗り越え、何とか東京神学大学に入学が許された時は全ての可能性が開かれたような希望に満ちていました。留学生として日本の学生たちについて行くのに苦労はありましたが、今までの自分の信仰や学びを整理し、深める良い時間が与えられたことに感謝しています。

・開拓伝道を始める

東神大を卒業後、無牧であった在日大韓基督教会所属の教会で伝道師を一年間してから、新大久保駅前にある矯風会の一室を借りて開拓伝道を始めました。時には友人や知り合いの方が心配して寄ってくださいましたが、殆ど一人で礼拝を守りながら、一人泣きをしていました。何よりも驚いたのは、その辺りには韓国人教会が多くあったことです。それ故、私までここで教会を立てる必要があるのかという思いで苦しい日々でしたが、祈りの中で、神様からの確信を得て何とか留まることができました。3ヶ月が立った頃、韓国からの青年4人が現れた時の嬉しさは表現できないほどでした。そして何人かの方が私を支えて、共に伝道したいと加わってくださいました。そして2年目には20人越えるほどの人が集まるようになりました。新宿の酒場で働く女性やホストバーのお兄さん、住房で働く年配の方や日雇いの仕事をしている男の方など、いろいろな理由で追い込まれたように日本での生活を選んだ人たちでした。不安定な生活をしていた彼らとの教会生活は、信仰的な面だけではなく、生活全般を支えなければならない苦労の連続でした。しかし、後になって気づかされましたが、彼らのために私がいたのではなく、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(ルカ2:17)とおっしゃった主イエスの心と眼差しを学ぶための、私にとって貴重な時間でした。

2年が過ぎた頃、東神大のクラスメイトであった人と結婚を機に、そこを離れて東北の地に向かいました。

・東北の地で

東北の豊かな食べ物や人情溢れる人々との生活は、今振り返ってみても心が温まります。少人数ではありましたが、教会大阪での9年間、関西の生活を満喫しました。心身共に弱さを覚える日が増えてきましたが、牧会者として、人間として、神様に厳しく問われる時間が多くあったように思われます。様々なことで多くのことを学ぶことができました。活気ある大阪だけではなく、京都、神戸、奈良など関西での生活は日本を知る上でとても良い経験になり、ワンちゃん繋がりの町のママ友との交わりも楽しみました。

私は大阪が好きで、そこで出会った人々との思いで胸がいっぱいになるほど、いつまでも一緒にいたいという気持ちでしたが、神様の御声に従い、大阪を去る決断をしました。

昨年3月海老名に来る時は新型コロナウイルスという疫病の中でした。「鈴木先生たちが動くときは必ず何かがある」ということを笑い話のように言う人もいましたが、その通りです。この先、また、何が私たちを待ち構えているのでしょうか。

・おわりに

この文を書くために、過ぎ去った日々を振り返ってみながら、私なりに一生懸命に生きてきたと思いました。辛かった日々も、神様に問い続けたいろいろなことも、今は平安のうちに見つめる余裕が少しできました。しかし、それで自分が成長できたかというと、何にも変わっていない自分がいます。かえって心身共に弱くなり、若い日の主に対する純真な献身の思いと情熱が失われているような気がします。多くの経験や学んできたことが今の自分を作っているのではないことを深く考えさせられます。ただ、主によって導かれ、今も主によって生かされていることを知りました。より主に頼って生きていかなければならないという思いこそが、今までの歩みを通して与えられている恵みであるのではないでしょうか。

過去を語ることの重さと負担を感じています。振り向くことは前進を妨げることにもなるからです。また、ノスタルジーに終わってしまうこともあり、自己満足に陥る危険性もあるからです。そして、時には心が痛む記憶や恥ずかしい自分がいるのです。私たち人間は過去を通していろいろなことを学ぼうとするし、くみ取ろうとしますが、それを否定するつもりではないですが、それで私たちの歴史や私たち人間が変わっていると言えるのでしょうか。ただ、過ぎ去った歩みのすべてが、「今、ここに、私は主によって生かされている」、それを告白するための旅路であったように思われます。

(日本基督教団 海老名教会牧師)