戦前版『共助』選集に携わって 片柳 榮一
戦前版『共助』が昭和8(1933)年に発行開始されたことには或る運命的ともいえる意味があると思う。成瀬治先生が共助会の或る時の夏の修養会で、昭和8年という年は、世界的にもヒトラーが政権を取った年であり(1月30日第1党のヒトラーが首相に、3月の総選挙の後、2月27日の国会炎上事件を理由に「民族への裏切反逆を取り締まる大統領令」をヒンデンブルク大統領に認めさせ、言論、集会の自由を、当分の間無効とした。3月23日総選挙で288票[43・9%]のナチスは、81票の共産党員の議席を剥奪し、「立法権を国会から内閣に移譲する」との悪名高い全権委任法を可決し、独裁政権を確立した)、日本でも国際連盟からの脱退(昭和6年9月柳条湖満鉄線爆破事件、昭和7年3月の満州国成立に対して、8年2月リットン調査団報告で、満州の主権は中国に在り、日本軍は撤退すべきことが勧告され、2月24日国際連盟で、この勧告が42対1で可決されると連盟を脱退した)があり、世界歴史の1つの転換点であったと感銘深く語られていたが、この年から共助会に集う人々の歩みがこの『共助』には記されており、あらためて私たちにとってのこの雑誌の意味を思わされる。
しばしばすでに「非常時」という言葉が語られている。選集にも掲載される山本茂男先生の「年頭の祈願」(1934年1月)には次のように記されている。「世は非常時と云ひ、社会不安の渦中に在りて、世相を観ずれば滔々として逸楽に流れ、人心の道義は益々地を払ひつつある」。確かに大陸ではきな臭い戦いの報道があり、声高に非常時が叫ばれても、「滔々として逸楽に流れ」というような、或る種の浮かれた雰囲気があったようである。しかし共助会の先頭に立った人々の眼差しは、信仰の光に照らし出されて鋭く研ぎ澄まされている。「佛教徒は勿論、基督教徒も今更の如く日本精神を唱道せねばならぬ時代となった。日本的基督教が俄かに飛び出しさうでもある。然り、日本精神可なり。日本によりて新たなる基督教の生命は世界に輝き出づべき事は吾等の念願である。然し基督教徒は徒に周圍の勢いに脅えて妥協してはならない。……たとえ如何に基督教が日本的になることを必要とするも、その眞理を枉(ま) げて妥協するならば、それは自殺行爲である」(前掲論文82頁)。1935年の今泉源吉の「みくに」運動が始まるのをひしひしと感じての、「否」の言葉である。
同じような問題に福田正俊も直面し、次のように述べている。
「例へば日本国には優秀な過去の芸術と伝統と民族性とがある。これは今日日本精神と基督教の関係の問題として新しく考へ直されている問題である。私はそのことを良い傾向として容認するのに吝かではない。しかし日本精神や日本文化の中にも神的なるもの、絶對的なるものが存在し、神の意志其物が日本文化の発展のなか認められ、かくて吾々は神の言たる基督とともに日本精神にも「神の言葉」を聴かねばならないのであるか」(1934・8)。福田はこの問いに対しては明確に「否」を語っている(おそらくバルトを見つめていたであろう)。
原田季夫「クリスマス1感想」(1936・12)を読むと、その歩みの背後に熱い志があるのを感じさせられる。「受洗後13回目のクリスマスを迎へ思うのは、罪人の友となり給へるキリストのことである。そしてダミアンが生涯をら(ママ、以下同様) い者のとして
捧げたことである。高等学校時代、自らがらいではないかと疑い、深い絶望を味わい、以来らい者の友たろうとの思いを抱いたが、現実はそれに程遠い生活である。聖なるかな、尊きかな、罪人のために生き、罪人のために死に給へる基督、我等は彼の中に我らの全存在の溶けさらんことを願うものである」。「恩寵の1里塚」(1941・3) からも、後の歩みの助走をしていることが窺がわれる。「献身満10年の記念日に思う事。この10年、願に願った1つの祈願があった。贖い主に対する意志の全き服従ということである。昭和5年大学卒業と共に、柏木の聖書学院に入学予定が摂理に阻まれて、谷底に突き落とされる様な気がした。翌6年2月3日周囲の一切の情実に眼を閉ざして、霧雨の止んだ間に、わずかの生活用具をもっていまだ知らぬ附属伝道所に赴き、新たな修養の生活に入った。各自が真に自らの生涯を神に明け渡し、各々が天与の賜物を最も美はしい調和の中に10分に発揮する所にこそ、神の国の面影は写し出され、その到来の早めらるるを思う」。
今度の編集に参加して小塩力という人に初めて接する思いがした。名前は聞いており、有名な文学研究者の小塩節の父親であり、井草教会の創立者であるということは知っていたが、今回はじめてその存在の桁外れな側面に触れた思いがする。「昏晦のうちに動くもの」(1941・9)において、氏は神の2つの側面として、1つは「論じ合おうではないかと主は言われる」というイザヤ書1章18節にあるごとく「神は私共ごとき者と真剣に論争したもうとする。従ってまた人間相互に、真理の為に、まじめに論議を尽くすことを要求したもう」という神の側面であり、もう1つはイザヤ63章9節にあるように、「彼らの苦難を御自身の苦難とし、……愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった」という神の現臨の思想だという。「私は極めて単純に、ただ1つの真理を反復したいと願ふのです。神いひ給ふ、汝の悩むとき、我もなやむ、これだけのみことばを自分に聴きたいと思ふのみです」(948頁)。太平洋戦争直前の時期です。「眼をあげて御覧なさい、この世界史的転局に際して、西も東も流血の惨と慟哭のおもひに満ち溢れています。有史以来はじめてともいふべき世界史的な悩みであります。神の怒りは凡る意味での洪水をもって迫るかもしれません。ノアの頃よりも、神の絶望はもっとひどいものでありませう。絶滅と根本的な否定が人間に向けられている・・・ノアの洪水は、約束の虹をもって究極的に性格づけられたといへます。虹の契約がこれです(創世記9)。恩寵の契約が、忍耐の約束が神の福音の骨格なのであります。」この後、そうした2面を備えたとして、歌人の伊藤左千夫と植村正久のエピソードを挙げて、教会と祖国の現状に目を向けている。「私は最後に合同の成った私共の教会の前途と、複雑な国際情勢に面して血路をひらかうとする祖国のために、おもひを傾けざるをえません。合同の祝会を終へて、或る責任の地位にある人がいったさうです。自分は悲哀のラメンタティオの、祝会に座したと。心ある人は誰もさうでしたでせう。然し今は、哀愁と戦慄のうちに神に縋って、願はくは今1度我らをこらえたまへ、み赦しをもって極みなき愛を教会に注がせ給へ、といのり続けざるを得ません。国の運命に対してもまた私共は半ば狂せんばかりに、額を土にすりつけてでも主よ憐れみによって我が国をいだき給へ、導き給へと、誰か祈らずにいられませうか」と叫び呻いている。私共はまた違った前途を眼の前にしているが、やはり粛然としてアーメンと言わざるをえない。
森有正の多くの文章から説教「イエスと学者達」(1943・12)を選んだ。森は戦後渡仏して、深い決意の下、そのままフランスにとどまった。ヨーロッパ文明の根源性を改めて知らされ、それを自らのものとするには、その中に生きるしかないと覚悟したのである。その歩みは1見、キリスト教信仰からの離反のように見えるが、晩年の幾つかの説教から知られるように、実に深い求道のたゆまない歩みであった。ここに収録した若き森有正の説教は、氏を根底に於いて支え、駆り立てていたものが何であったか示唆している。この説教では、「人の魂を真に生かすものとしての愛」と呼んだものである。このことを氏は父森明の生を通して呼吸し、学んでいることが窺がわれる。