K君のこと 清水 広幸
聖学院中学校高等学校 副校長
わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。(旧約聖書 イザヤ書四三章4節)
四月は私にとっては特別な時です。特に4月11日を忘れることができません。それは9年前の4月11日17時13分、当時私が担任していた高ⅢD組のK君が天に召された時でした。
彼は体中の血管が腫れて、そこから血液が漏れるという「血管腫」という難病を患っていました。中学一年の頃は杖を使いながらの生活でした。中二からは車いすで生活をした生徒でした。人柄は明るく前向きで、学習も頑張り屋でした。そんな高橋君は皆の人気者でした。
高校Ⅱ年生の2月中旬、亡くなる二か月前に、突然の発熱と相当な痛みを伴い東大病院に入院、闘病生活をしていました。彼は高Ⅲになったら、美術系予備校に行きながら大学を目指していくことになっていました。
高橋君の座席はいつも教室の右後ろが定位置でした。車いすの出入りがしやすいからです。休み時間や移動教室の時には多くの生徒が率先して車いすを押してくれした。体育の授業Aアリーナに行くときは率先して運びました。高Ⅱの沖縄平和学習に体調の無理を押して最初の二日間だけ家族と参加、平和祈念公園で撮った写真が残っています。家との最後の旅行、仲間との最後の旅になりました。本当に沢山の友人に囲まれてました。
教会で葬儀の時、仲間の一人は、「おれの一生の友達」と、そして「俺がK、お前の分まで生きるから天国で見ていてくれ」と語りました。私は生徒から教わりました。何が出来るか、何をしたのかが問題ではないのです。彼自身、存在そのものが、仲間達に大きな存在であったのです。
私たちは、自分で自分のことが好きだと思えない瞬間が、誰でもあるのではないでしょうか?
自分で嫌なところがある、他人と比べて出来ないこと、隠しておきたいこと大きな劣等感や自己否定を感じる時があります。自分なんてどうでもよいと思える人もきっといると思います。私も思い通りにならず、理想と現実のギャップに随分と悩んだことがあります。思春期を迎えている生徒の多くが、自己肯定が出来ないと言われます。自分のことを自分で認めることが困難であるということだと思います。
ある高校生と話していて、全てが否定語になっている会話を思い出しました。親は分かってくれない、友達は理解してくれない、忙しくてできない……ナイナイづくしです。その生徒も悩んで八方ふさがりだったのかもしれません。 私たちは神様に作られた特別な存在であると聖書は語ります。誰もが尊い存在だと呼びかけてくださいます。あなたのありのままが尊いのです。神様はそのあなたを認め愛してくださっています。神様に作られ神様に活かされているあなたには、きっと大きなご計画を託されているのだと信じています。
K君の自宅には命日の4月11日、彼の遺影の前に仲間が何人も集まりました。神様は、一人ひとりが「私の眼にはとても高価で尊い」あなたはVIPであるというのです。どうか皆さんは、この連休を自分の存在を振り返り自分自身が神様から無
条件に愛され大切にされている存在であることを意識して過ごしてほしいと思います。
あなたは高価で尊い…、ここに神様の大いなる愛が示されているのです。お祈りをします。(2018年4月9日 全校朝礼拝奨励)