キリストに従う者として (2014年 1 号) 飯島信
2014年の訪れである。キリスト教共助会創立95年を迎える。戦前、戦時、戦後の95年を貫く共助会の歩みに導かれた先達は、一体どれほどの数になるのだろう。会員として記録に残る人だけではない。夏期信仰修養会、京阪神修養会を初めとした共助会主催の集まりに集った人々は、恐らく膨大な数になるに違いない。
この時、共助会とは何かを改めて思う。共助会は、アカデミックな研究団体ではない。世の悪に挑もうとする社会的実践団体でもない。共助会は、伝道団体である。神の独り子、主イエス・キリストの十字架の贖罪の業を信じ、復活を信じ、救われた者たちが、友にそのキリストを紹介することを使命として負っている伝道団体である。友にキリストを紹介する業なくして、共助会の命はない。
然して、その業を担うのは己である。神の前にただ一人立つ己である。神の御前にあって自らを省みる時、その業を担うに相応しき者とは到底思うことが出来ない。ただ、神の赦しと憐れみに依りすがって生きる他無い自分であることを知らされている。
神が、そのような自分に許されている一つのこと、それは祈りである。ただ祈りによってのみ、自分の歩みは支えられ、今日という時を生きることが出来る。
3.11より間もなく三年、マスコミを通して知らされて来る国内外の情勢は、あまりに辛く、厳しい。国内では、世界の流れに逆行する特定秘密保護法案の成立、待ちうける増税による生活の逼迫、復興の展望なき日々を生きる被災地の人々の存在がそれである。国外では、中国、韓国との緊張関係と、その緊張に拍車をかけるような北朝鮮の独裁体制の強化など、一歩間違えば戦争状態に突入してもおかしくない時代が訪れている。
このような国内外の情勢の只中にあって、共助会はいかなる歩みを為し得るかを思う。一人の社会的存在として、このような政治・社会情勢に関わり無く生きることは出来ない。
また、一人のキリスト者として、友にキリストを紹介する歩みをかにすることは出来ない。神の国を来たらせ給えと祈る私たちは、目を高く上げ、神の国をはるかに待ち望みつつ、キリストの歩みに従いたいと思う。この一年、友にキリストを紹介し、社会的存在としての責務を果たす者となりたいと思う。