《川田殖先生の呼びかけ》川田殖

佐久学舎関係の皆さん

お変わりありませんか。三人の世話人の御文章をよみ、感謝と喜びに溢れました。山本さんはこんにちにおける佐久学舎の原点、石川さん、小野さんはそれぞれの場での働きに立ちながら、学舎への切なる思いを記しておられます。まさに「育て給うは神」ながら、植え、水を注ぐ働きびとありてこそですね。これからも熟読玩味したいと思います。

佐久学舎の歩みについては山本さんが『基督教共助会九十年—その歩みに想う—』にのせて下さった文章が要を尽しています。私自身もいくどか『共助』に書いたことは小野さんの記事の通りです。また佐久学舎の生みの親ともいうべき北白川教会と共助会の中で育てられた私の歩みは去年の修養会(『共助』718号)にその筋書きを述べましたし、最近のコロナ大流行の感想は『共助』(724号)に書きました。今のところ、それ以上につけ加えることはありません。お読み直しいただければ幸いです。

今の私といえば、ここ数年来、聖書の原語の意味とのとり組みがつづいています。コンコーダンスを手引きに聖書をよみ、日本語での表現を吟味しています。私にとっては終わりのない、いつ終わってもいい仕事です。そのうちの若干は、挽地(ひきち) 茂さんがたとの共編の『新約ギリシア語基礎辞典』に反映されることになりましょう。聖書をていねいに読む人の叩き台になれば念じています。もうひとつは牧師不在の佐久教会のご奉仕で、ここ数年来「イザヤ書」「ヨブ記」「ロマ書」「マルコ伝」のところどころを学び、今は「出エジプト記」に入っています。月一度のご奉仕ですが、すべてを始めから読み直し、調べ直し、考え直しながら語るのは勉強にもなります。そのたびに感ずるのはおのれの無知と恵みの深さです。

ことしのイースターには、愛読の聖句を思い出しながら腰折れ三首をつくりました。

〇マルコ15:37

わが神と叫びて果てし キリストの

苦難と死とは ひとりわがため

〇ガラテヤ2:19—20、ピリピ1:21

我もはや生くるにあらず わが内に

生きて働く 神の子の愛

〇ヨブ1:21、ピリピ4:4―9

神与え 神取り給う このいのち

喜び捧げん 神を讃(ほ)めつつ

それにしてもお目にかかりたいですね。しかしそれも叶わぬいま、いつかお声をききたいです(℡で)。

コロナの昨今、social distance は必要ですが、mental nearness

はもっと必要です。その背後にインマヌエル(神われらとともにいます)とは何という幸いでしょう。小野さんの示してくれたコロサイ書3章12―17節を読み、讃美歌1954年版 2編157番

「この世のなみかぜさわぎ」を開きつつご健勝を祈ります。 

30年、佐久学舎の番頭たりし私とともに、女将たりし綾子からもくれぐれもよろしく。July , 22(哲学者・日本基督教団 岩村田教会員)