聖書の中に自分を読む 江川裕士

思い出を振り返る機会をくださってありがとうございます。自分は今年初めて佐久に行きました。元々自分は東京下町生まれで、この地方に縁はないのですが、佐久は、埼玉の田舎に住むおばあちゃん家ち の近くの雰囲気にどこか似ている感じがしました。先日、高祖母が長野の「原村」生まれだと聞きました。家族で蚕を飼ったり、茅葺屋根を直したりしていたようです。4代下って、長男が書物中心の生活に入ろうとしていますが、元はそんなの関係なかったみたいです。佐久では、その自分とこれからの「書物」との関係の、一つの手本となるような姿勢を拝見させて頂きました。このことを説明するために、今日は、内村鑑三の次の引用から始めたいと思います。

むやみに本は買わないように。本を買うときは、よほど注意して選ばなければならない。ことに宗教の本ほどツマらぬものはない事は他人の事ではない、我等の事である。柏木に来つて私の講義を聞くことが何かの功徳であると思ふ時、自分が為した少し斗ばかりの慈善又は伝道事業が何かの価値を自分に附けたりと思ふ時、聖書研究の必要を教へられて聖書道楽に耽けるに至りし時、キリストの十字架に頼らずして、自分の手か脳か心かの状態に頼るに至りし時に、我等は真の福音を離れて異なりたる福音に遷るのである ―

ここで内村は、「キリストの十字架に頼らずして」いると、聖書を読んだって「異なりたる福音に遷る」よと言っています。裏を返せば、『聖書』は僕らを「真の福音」に繋げてくれるかもしれない書だけれども、その『聖書』だって(それ以外の「宗教の本」はなおさら)「よほど注意して」読まんといけんよ、ということでしょう。僕だって本選びには気をつけているつもりですが、それでも本の束の中に埋もれがちです。しかし佐久の初日に川田先生がしてくださった「聖書史」講義は、先生の「読むべき書物は何か」という問いを通じて、僕の中に「読むべきものがある」という信頼感覚を残してくれました。なぜ「読むべき」なのかって、時に「ある種の本は君を読むから(Usually you read books,but some books read you)(ICU哲学教授)」でしょうか。「歴史の中に自分を読む」(阿部謹也)ように、本の中に自分を読めたら嬉しいし、地に足が着く感じがします。

では、僕は聖書の中に自分を読めたのか。今年の佐久の聖書研究では、『聖書』に自分を読むことはできませんでした。でも代わりに発見した「自分」が二ついます。一つは、「弱い」イエス像を持つパウロに共感できる「自分」でした。研究発表のタイトルは、「『エフェソ書』5:21―6:9読解 ― 僕が呼びかけうる〈秘義〉の神についての考察 ―」です。発表の最初で僕は、救済史を生きたお人形さんイエス、「救い主」の「強い」イエスに全く共感できない、と言いました。他方パウロは、彼の宗教心理上で出会ったという「十字架につけられたままの」「弱い」イエスを見ているようなことも言っています。パウロ曰く、イエスは、まさに今俺たちが十字架にかけている。イエスが恐れているから、早くイエスを降ろしてあげたいが、人間は愚かすぎるから、自分達の知恵によってはそれを実現することがどうしてもできない。そこでパウロは人間の浅知恵を悔いつつ、神の知恵を求め、それに聞き従うことを説きます(おそらく、『ヘブライ語聖書』から伝わる、「神よ、どうして私を見捨てるのですか」という切迫した問いに満ちた自民族史を思い出しながら)。僕は、このパウロの悔いには共感することができます。その上で、伝統的な男女間の結婚生活を規定する担当箇所を読んで、エフェソ書のパウロが読者に求めていると思ったことはなんだろうと考えました。

そこで僕が発見した二つ目の自分は、いわゆる「神愛」がわからない自分でした。これは自分が、「キリストの十字架に頼らずして、自分の手か脳か心かの状態に頼」って生きているからだと思います。(救済史的)神愛に「頼って」生きることがわかりません。パウロはおそらく、社会の外側である2人が親密な関係を生きる場合には、お互いに「自分を養い、大事にする(ヤハウェの言葉を語ってくれる)者を恐れよ」、「あらゆることについてその者に従え」と言っています。元の文では命令形で、「男=夫」が「キリストもまた教会を愛し、教会のためにみずからを引き渡し給う」ように「妻=女を愛す(アガパオーする)」のだ、と言っています。神に愛された者、あるいは神の言葉を受けた者(=男)の自己犠牲が先であるという神愛先行性を、今「男=夫」が実現するのだという命令だと思います。なるほど、パウロが人の知恵ではなく神の知恵(言葉)に頼るよう説くのはわかりました。イエスが迫害されてもなお同じことを伝えたかったのもわかりました。でも、イエスのその心理の裏に、どうして「神愛」を読み取ることができるのか。イエスを十字架にかけているのは俺たちなのに、その十字架にイエスが自己犠牲的にかかっていると解釈することは非人間的で、ご都合主義的です。僕は、イエスにとって「私が十字架にかかる痛みと恐怖よりも、人々に神の言葉を言い伝えたい気持ちの方が大きい」という非常識な宗教心理を「秘義(神秘)」や「神愛」、「恩恵」の一言で片付けたくありません。もしあったとすれば、その宗教心理は、それ自体が神の知恵の顕現であり、イエス自身も感知しえなかった何かだった、と僕は整理するしかないのですが、この整理では神とイエスの心のシンクロは、大きな神の思惑の前に消えてしまっています。なんだ、結局人間には神の心はわからないんだな。イエスの人格も見えなくなったし、俺が神愛先行型で、自己犠牲的に隣人愛を生きることもきっとないだろうな。僕とキリスト教教育や宗教心理との関わりももう終わりかな。胸が「ざわめき」、痛みます。お腹の左上から心臓を通り、胴体の右側にかけてざわざわとし、痛いです。喉は少し締め付けられます。

この「ざわめき」の正体はなんだろうか。僕にとって、この「ざわめき」は、深い祈りのとき、「それ」を見つめたら自分が自分でなくなってしまうような「深い自分」が近いときに現れます。ただ「それ」を、1人では見つめることはできません。だって、この「深い自分」を認めても誰かに隣に居てもらえるという安心感がなければ、怖いから。自分は、1人では見つめられない「深い自分」がいることを知りながら、日常的には誰にも頼らずに生きています。「それ」の断片を言葉にしてみることはあっても、実際に信頼できる誰かに全面的に明け渡すことはありません。当然、他人の「それ」を全面的に・実際に明け渡されることなんて、滅多に考えたこともありません。それゆえ、僕はこの「深い自分」の望みが何かも知らないし、他人が「深い自分」を乗せた言葉にどれだけの真実が宿っているのかも、ほとんどの場合信じられません。

ただ佐久では、みんなもいて1人ではなかったので、この「深い自分」の断片的明け渡しを祈りの言葉に乗せて、それが「自分中心の祈りにならないよう」祈りながら、告白していきました。同時に、参加者の「深い自分」の断片も聞けた気がします。

段々と、参加者の1人1人が自分にとって大事になってくるような時間になりました。この佐久の思い出が、「自分の手か脳か心かの状態」に頼って生きることにならないで、ただ読むべきものを読み、頼るべきものに頼って生きることに繋がるように祈りつつ、生きていきたいと思っています。それができない時にも、「自分にはできない」と告白させてくれる佐久の時間が嬉しかったです。        

(京都大学文学部 科目等履修生)