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小さな胸のリポン(2004年4月号) 木村 葉子

 2000年、東京の小学校の卒業式で、何も書いてない小さなリポンを胸につけた教員十数名が、全精神を職務に集中していなかったという理由で「職務専念義務違反」の処分をうけた。一人が仲間と考えた末、管理と強制を強める学校の中で教員や子どもたちの「思想・良心・信教の自由」「表現の自由」が守られることを願って裁判を起こした。「ピースリボン裁判はじめます」という集会で、精神科医・野田正彰氏は講演「良心の自由なき教育」の中で現在の教育は「人格の解体に周囲の人が鈍感になっていること」を讐告した。

 絶対評価導入で「関心、輿味、態度」が評価される子どもたちはいつも見られていると感じ、さらに自分で自己評価を書かねばならない。自分を良く見せるために「ウソの自分を作る訓練をせなあかん。爆発しそう」と苦しむ子。その子こそが健康な精神のもち主である証拠なのだが、このような子は少数者であるという。普通の優しい子が起こす殺人事件が頻発している。

 良い子を装おい形式に順応している、ウソの自分が歪みとなり二重人格を生きている空虚さから病的過剰反応を起こしてしまう。しかし、氏の教え子の大学生たちは二重性を使い分ける方が便利だという。そのような自己中心性の中に生きていると、ありのままの自分の欲望や弱さを受け止めて人との関わりの中で自分を統合して成長するきっかけを得ることが出来ない。人格の分裂した歪みの中に生きることは何という不幸だろうかと説明された。

 昨年暮れ、「君が代」伴奏拒否裁判は地裁で敗訴した。「一定の外部的行為を命じるのであるから、内心の領域における精神活動までも否定するものではない」として「公共の利益によって制限を受け」「受忍すべき」であると。

 教育行政も校長も「心で何を思ってもいいが、命令には従ってもらう」が常套句である。彼らだけではない。ホンネとタテマエのひどい分裂。子どもにも「不満があってもいいが秩序には従いなさい」「心で泣いても顔では笑え」と教える教師、大人。

 「君が代」は教育現場の踏み絵となった。戦国の世、キリスト教は神の前の平等、生命の尊さを教え、司祭たちの貧しい者に対する博愛・奉仕も日本人の心を動かし数十万人が信徒になった。しかし、貿易や植民地侵出と同時であった伝道はキリシタン禁制をもたらした。「踏み絵」法の廃止は安政五年(1858)である。これらは今の日本人の精神構造にも深い影響を落としていないだろうか。