共助会の不易と流行(2004年5月号) 川田 殖
不易と流行」とは、いまや陳腐にさえなつた、芭蕉の俳論の用語であるが、単純な対立ではない服部土芳の「三冊子」によれぱ、その根底は一つであつて、「風雅の誠」つまり創作に注ぐ真剣な心がけだという。時代をこえて人の心を打つ作品は、この「誠」まごころによつて「不易」なのである。また真剣に追求する者は、現在の境地にとどまれず、おのずから一歩をふみ出し、新たなものへと進む。それが「流行」である。
不易の作品を生み出そうとして、人麻呂や定家の作品をまねたところで、それが生まれるものではない。また何となく古いものはいやだといつた程度の移り気から生まれる新しさは、うたかたのように消えて行く。ともに創作に打ち込むまごころがないからだ―というのであろう。
私たちが歴史に学ぷとは、実は、このまごころを学ぷためである。このこころで私たちの課題に真剣に取り組むとき、そこに歴史が作られ、不易と流行の両面があらわになる。それは、時には痛恨の歴史であり・時には感謝の歴史であろう。しかもその痛悔も感謝も、神のみわざにつながる時、ひとしく永遠の意味をもつ。永遠とは、私の理解でいえば、神とともにあることだからである。 本会はキリストのために、キリストの恩寵に浴したる者が、キリストの精神を奉じ、キリストをわれら大学・高等学校の諸友に紹介せんとする目的をもって組織せられたるキリスト者の団体である。
キリストの教訓と人格とに対して質実なる態度をもって接近せられんとせらるる友の助力者ともなり、かつわれらの日常寂漠たる精神生活を相互に慰め、清き友情を結び、共に助け進まんこともまた、本会の目的とするところである。
会はいずれの教派にも属せず、「キリスト」のほか全く自由独立の団体である。
いまから八十年以上前に起草されたこの「学生キリスト教共助会主旨」に生死を賭けた創立者とその同志のまごころに学び、人格的出会いと交わりの中で、おのがじしの課題に真剣に取り組む、そこに私たちの不易と流行の姿があるのではないか。