すべての民の間にあって祭司となる (2006年1月号) 尾崎 風伍

 神は、モーセを通し、出エジプトのイスラエルの民に対して

「今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記一九・五- 六)

と言われました。

宗教改革者マルチン・ルターは、この箇所を含め聖書に基づいて、すべてのキリスト者が祭司の務めを委ねられて世に遣わされていることを、「万人祭司」という言葉に託して、改革された教会のあり方を示す柱の一つとして掲げました。祭司の務めは、すべての人がキリストによる罪の贖いにあずかるように執り成しの祈りをすることです。また、キリストによって与えられる神の祝福の源になることです。日本でキリスト者は一パーセントにも達しない少数者でありますが、私たちはこのような光栄ある思い務めを委ねられて、ここに立っています。

 今の日本は、罪と悲惨の中に倒れ伏して再起できないのではないかとさえ思われるありさまで、幼い子供が下校途中で連れ去られ無残に殺されるなどという事件が頻発する状況は、治安のレベルが最低以下であることを示しています。政府が危機感を持つのは当然のことですが、政府が危機感を持つのは当然のことですが、日の丸・君が代の強制、政府自らが作成して全国千二百万の小中学生に「補助教材」と称して配布した『心のノート』、はては教育基本法や憲法の改変等、一連の動きに一貫して見えてくるものは、政府自らが国民の心を支配しようとする意図です。政府に委ねられているのは、「必要な諸条件の整備確立を目標とした教育行政」(「教育基本法第一〇条」参照)であって、政府はその埒を越えてはなりません。それは、現状の問題解決にならないばかりか、戦前日本を滅びへと導いた諸霊を引き入れてその支配をゆるすという、もっと恐ろしい状況を出現させることになります。

 これはもはや、単なる政治の問題ではなく信仰の問題であり、前述した政府の一連の動きに対する反対の意思を明確にすると共に、私たち自身は、委ねられた「祭司の務め」にいっそう励まねばならぬと思います。