対話不在の国(2002年12月) 佐伯 邦男

 日本には会話はあっても、対話がないと思うことが多い。いろんな集会での挨拶で、「御多忙中のところ」とか「足もとの悪い中を」とか、「誠に良い御講演をいただき」とか、定形的な表現が生活の周辺にうごめいている。また、講演会や報告のあとでの質問は少ないか、ほとんどない。本来、良い質問とは、返答に窮するような問いかけで、答える方に創造力を誘発するものである。

 会話で時を過ごすことの出来る人々は多いが、対話のできる友人は、残念ながら少ない。対話は、対等の立場で話をすすめるのが基本と思うが、日本では身分の相違、先生と生徒、医者と患者、上司と部下、牧師と教会員、政府と国民、自治体と住民、物を売る側と買う側、先輩と後輩、親と子ども、男と女、などの問で本当の対話ができない。対話は、会話とも討論ともちがう。会話は情緒的で人間関係を良くも悪くもしない。知識の交換は会話である。討論は、それぞれの自説を主張し、相手を説得しようとする。テレビで、多くの長時間の討論を見たり聞いたりして、何とも後味が悪く空しさを感ずる。対話は、相手を言葉でやっつけるわけでもないし、相手に説得されて同意することでもない。双方のささいな違いを発見し、その持つ意味や遠因を見つけたり、将来の幻を描くのである。真の対話は、双方の哲学的思考にもとづくものであるから、極論するとそれぞれの持つ人生観で成り立つものである。

 もう長い間、対話に関する多くの本も読んで釆たし、日々の中で風通しの良い対話や、創造的な対話を試みて来たが、決して対話の名人になれそうもない。

 聖書は対話の書物である。ヨブ記には、友人との対話と、神と人との対話が見事に描かれている。神が地上に送られたイエスは、貧しい人々や、差別に苦しむ人々と対話をされた。今、聖書を対話の書として読んで見ると、数々の新しい発見がある。

 多くの面で、絶望的行きづまりを覚える昨今の日本で、全人格から発する、生きた言葉と言葉での対話が始まるならば、この閉塞状態からの脱出が可能になると信じている。