宝 を 倍 す る (2012年5号) 山本 精一
本年3月、韓国ソウルで「韓日基督教共助会修練会」が開催された。第1回の修練会が行われた1992年以来、5年に一度ずつソウルでもたれてきたこの集まりも、5回目の今年で、初回時から20年の歳月を重ねてきたことになる。
これまで、この5年に一度の集まりに支えられて、折にふれ、再会をともに喜び、新たな出会いを経験し、その交わりの恵みに与ってきた者たちは、少なくない。そのことの有難さを思う時、この集まりのために、とりわけ開催地韓国の師友たちが、毎回どれほど多くの労を担ってきて下さったことか、そのご労苦を忝く思うばかりである。しかし同時に、そのことによって与えられてきた交わりの恵みを数えるとき、感謝の念もまた一層に深い。
思えば、この修練会の持続の深部には、共助会の群れの中で生起した、戦中・戦後二つの時代の人格的邂逅が、地下水のようにいつも脈流していた。その邂逅とは、1つは1940年代初頭、今一つは1960年代に生起したものであった。その詳細は『共助会90年史』に譲らねばならないが、そこには、それぞれの時代において、この邂逅を祈りのうちに神の賜物として深く縦に受けとめた韓日それぞれの信仰者の、人格的呼応の出来事があった。これらの人格的邂逅に生かされそしてそれを生き抜いた人々の祈りと信仰が、今日の韓日共助会の交わりの持続の根底にある。だがこの二つの邂逅は、同時に、近代日本の朝鮮侵略という時代史的文脈のなかに置かれてもいた。そのことを、私たちは忘れることがあってはならない。
「植民地」朝鮮では、日本の国家的暴力は、さまざまな政策と手法を用いて、人々の生活をその隅々に至るまで管理統制下に置いた。それゆえ、人々の生活と心には、その暴力のもたらす傷が刻みつけられていた。大日本帝国の植民地朝鮮から日本へと追いやられてきた若き朝鮮人青年たちもまた、言い難い苦衷の念を内に懐いていた。
彼らと出会った堀信一は、聖書研究会を通じて、彼らとの交わりを宝のように慈しみ、さらに共助会の人格から人格へとこの交わりをリレーしていった。
だがやがて、帝国日本は敗戦によって瓦解する。それに伴って、朝鮮半島では、植民地からの解放、そしてそれにただちに続く南北分断・朝鮮戦争・軍事独裁政権の支配という民族的苦難の激流が人々を呑みこんでいった。
それに対して、この苦難に対して大きな責めを負う日本では、むしろこの戦争の特需景気に沸き立ちこれを経済的復興の機運の高まりとする声が他を圧した。他方、故郷朝鮮での生活を破壊され日本に追われるようにして渡ってきた多くの人々は、戦後の混乱のなかで市民的権利を剥奪されたまま「在日」としてとどまることを余儀なくされていた。
こうして朝鮮半島と日本との間にも、そして日本そのもののなかにも、人々を分断する力が幾重にも蠢いていた。深い傷を負った朝鮮の人々の記憶は、この状況のなかで、後々に至るまで深くうずき続けた。
そうした時代のなかで、交わりがいのちあるものとなるには、とりわけ日本の側に、この何重にものしかかる分断の力を滅ぼす福音の消息に砕かれ、それによって、この傷に呻く隣人の記憶に心を開き、自分自身の分断された状況を突き破って、呻きつつ交わりを求めて身を伸ばす「愛のための労苦」(テサロニケ前書13)が必要であった。
和田正、澤正彦、李仁夏、飯沼二郎、小笠原亮一は、その労苦をそれぞれの仕方で担った先達たちであった。
しかしこれら先達たちの召された今、彼らの遺した「愛のための労苦」という宝は、私たち自身が記念品として埋蔵・保管・展示すべきものではない。むしろこの宝を倍せよとのイエスの言葉に、日々出会い直していかねばなるまい(マタイ福音書25・14─30)。世にある私たちの交わりは、縦糸(福音)と横糸(世界)のなかで紡がれる。だが具体的な出会いは、まずはつねにその時代・世界の波に洗われる。
そのことのなかでこのみ言葉を生きるとはどのようなことなのか、二十年の歩みの中であらためて深く問われる思いである。
だが少なくとも、一方でそれぞれの時代における邂逅をいのちあらしめた縦糸と横糸との結び合いを幾度も想起すること、他方で私たちが置かれている時代の縦糸と横糸に目覚め、新たな交わりを生きる者とされていくことが求められているのではなかろうか。それが安易になしうる道でないことは確かである。
しかしそれはまた、到底無理ないしは時代錯誤だと決めつけて端から放棄すべき道でもない。そこでその交わりが新たにそして自由に生きられるとき、時代的邂逅は「愛のための労苦」とともに、つねに更新されていくことを求めてやまないのではなかろうか。