キリスト教共助会九十年を迎えて思う (2012年4号) 佐伯 邦男
私は一九四五年京都大工学部に入学し、四カ月後に敗戦を迎えた。皇国史観の教育で育てられてきた一九歳の青年は、全くの空虚、しかも貧しく空腹の日々に、精神的にも参っていた。生きて行くためのアルバイトの関係で北白川教会の奥田先生を訪ねることになったのがキリスト教に触れるきっかけであった。やがて洗礼を受け、一八四九年大学卒業前に共助会に入会した。爾来六十三年、私の生涯は共助会と共にあった。九十年史と重ねて,自分史も振り返っている。産業界での生活、退職後の社会福祉法人や日本聾話学校での奉仕も、共助会の先輩・友人との交わりに触発された。キリスト者としての生き方が、私を次第に染めて行き、八六歳の今がある。
戦中、戦後、経済成長、バブル崩壊、世界同時不況とテロと戦争,大地震、大津波環境汚染、原爆・原発問題など、人間の一生としてはすさまじい時代を生きている。
パンドラの箱の蓋が開けられ、わずかに希望だけが残っている感だ。小さい群れの共助会に課せられている現代の重たい使命はなにかが問われる。キリストのほか自由独立の精神は良しとしても、主にある友情とは単に慰め合うことではない。励まし合い、交わりを深める対話の時を十分持つことだ。九十年史を読みつつ感ずることは、今の共助会には激しい対話がほとんど無いと思う。創造的な発想が無ければ、新しい行動は生れてこない。いたずらに高齢化を嘆くことは止めて、老いも若きも、性別、職業も、教派も超えて、対話から明日への希望を見出したい。 最近、ハーバード大学の政治哲学者マイケル・J・サンデル教授が一大旋風を巻き起こした「白熱教室」という対話型講義をテレビで見た。東京大学でも同教授が来日して一〇〇〇人の学生を集めて「白熱教室」を実験的に行ったが大反響であったそうだ。主にある友情を持つ友と主による鍛錬をもちたい。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れにかこまれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブライ人への手紙一二・一)。