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キリスト教共助会はここに立ってきた――特に教会との関係において (2012年6号) 尾崎 風伍

 森明が中渋谷教会牧師として既存の神学から選び取った基本線は「時局に関する吾人の見解及び態度の表明決議」の中の「一 宗教的立脚点。イエス・キリストにおける進歩的正統主義の信仰および生活を確立すること」に尽くされていると考えられる。「進歩的正統主義」という言葉を教会論の分野に当てはめて言えば「神の言葉によってたえず改革されてゆく教会」(カルヴァンの流れを汲む改革派教会の自己理解の言葉)というのが最適、と私は思う。森明はいわゆる教会論に属するまとまった文章は残していない。しかしだからといって森明が教会を軽視していたのではない。むしろ教会を非常に大事にしていた。このことはキリスト教共助会にとって大前提なのである。が、ここから発して森明の実際の牧会・伝道は鋭い矛先を一点に向けて突き進む。その矛先の先端に、キリスト教共助会は位置し、そこに立ってきた。以下に初期の歴史的経過を通してもう少し具体的に述べる。

  昨年秋の頃、日本キリスト教団出版局より雑誌『説教黙想・アレテイア』の「牧会者のポートレート」のページに「森明をとりあげたいので」と執筆依頼があった。その折「森明の単なる紹介ではなく、牧会者森明の姿を」という示唆ありこれに関心をそそられて引き受けた。あらためて関係書を読み直して、教会に対するキリスト教共助会の基本的な関係位置は、森明において既に極めて明確であることに気づいた。〔さいわい「牧会者のポートレート・森明」は、転載が許されて本号所載となったので乞御参照(21から24ページ)〕。後半部に森明が中渋谷教会牧師として開設指導した「教友会」「伝道講習会」「キリスト教共助会」を時代順に提示した。この三つの会の主旨には共通して「何れの教会及び教派なるを問わず」という意味の言葉がある。これは、教会論の埒内で用いると不穏当に聞こえるかもしれないが、そうではなく信徒が遣わされて行く「教会の外の場所」での厳しい現実に思いを致し、「そこでどう生きるか」を熟慮してのこと。

この一点に、森明は自らの短い生涯の時間を用い尽くし、生死の工夫を凝らして全力を注いだ。こうして到達し結晶せしめ得た形がキリスト教共助会であった。