父なる神の御心を行う人(2001年6月) 小笠原 亮一

 地方の教会の、私の保育園は、昨年春、障害があると思われる三人の子どもを受け入れた。一見、身体的に健康と見えるが、自閉症的な傾向があり、ほかの子どもたちと一緒にすごすことは難しく、特に一人の子は、保母が付きっ切りでないと、自分で怪我をする危険がある。その子の家は、私の保育園まで自動車で30分もかかる遠い別 の町にある。その町の保育園では、この子を快く受け入れない。その背景には、親が子を連れて児童相談所に行き、障害児として判定してもらうと、福祉事務所から保育園に対して補助金が出るが、親としては、まだ小学校前の小さいわが子を、懸念しながらも、障害児であると思いたくない、ということがある。しかしより根本的には、地方の小さな町村では、先祖代々住んできた家の中から障害児が生れた、と明らかにされると、その家族や親戚 が、結婚など深刻な影響を受けることを恐れるからである。

 同様に、小さな町村で生れ育ち、家族と住んでいる人が、例えば、私の保育園の保母が、キリスト教会で本格的に信仰生活を始めようとすると、親や親戚 が激しく反対する。憲法の思想と信教の自由が、半世紀以上たっても、尊重されず、身につかずに、21世紀の境目の前後に、反動とも言うべき、重苦しい圧力が加わっている。

 イエスは、当時のきびしい状況において、弟子たちに「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない、また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10;37以下)と語られた。しかし、よく考えると、先ずイエス御自身が、母よりも肉親よりも誰よりも、第一に父なる神に従われた。十字架を負って。そしてイエスは、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3・31以下)と語られた。私たちはイエスに従うために、人々から憎まれ、苦しむかもしれない。しかし私たちは、私たちを憎む人々を愛するためにこそ、イエスに従うのである。