ああ、勇士らは倒れた(2001年7月) 大島 純男

 サムエル記下の2章17節以下に、「弓」と題する哀悼の歌が載っている。ギルポア山でペリシテ軍と戦い、命を失ったサウルとその子ら、特にヨナタンを悼んで詠んだダビデの歌である。  ダビデの名声が高くなるにつれ、サウル王は敵愾心を燃やすようになった。部下が殊勲を立てたなら、王として嬉しいはずであるが、人間の感情はそれほど単純ではない。女たちの、凱旋するダビデを称える歌が決定打となり、サウルはダビデに殺意を抱くようになり、息子のヨナタンたちに殺害命令を下した。ヨナタンは初めてダビデを見たときから友情を抱いていた。父親が殺害計画を立てるとすぐにそれを知らせ、逃亡を手助けしたことも一再ではなかった。王とその子ヨナタンとの確執も見逃せない。

 しかし、ギルボアにおける戦いは父子の結び付きを固めた。かくして、サウル王は深手を負って自害し、ヨナタンたちも斃(たお)れた。その報に接したダビデは、「ああ、勇士らは倒れた」と何度も嘆いた。戦場には、勇士らの武器が野ざらしになったままである。ダビデはヨナタンの友情を思い起こし、「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を」と謳い、「ああ勇士らは倒れた。/戦いの器は失われた」と、サウル、ヨナタン父子を「戦いの器」と呼び、この詩を閉じている。

 わたしたちは、21世紀という戦場に臨む「小さな群れ」である。職場や地域、或いは家庭で、キリスト教信仰を巡って、有形無形の戦いを強いられている。昨年度、島崎光正、本間浅治郎といった勇士らが倒れた。戦いの半ばで倒れたと言ってもよいであろう。エフェソの信徒への手紙の著者は、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(6章12節)と記し、「神の武具を身に着けなさい」と勧めている。また、「すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と語る。共助会に集うメンバーは今こそ、神の武具を身に着けて、出陣しなければならない。後方の祈りも必要である。わたしたちが倒れるか倒れないかは神のみがご存じである。神にすべてを託して、神の勇士として進んで行きたい。