十字架につけられたイエス・キリスト (2003年6月号) 李 仁夏

 新約聖書の多くの頁を占めるパウロの手紙を一点に絞るならば、「わたしはあなたたちの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(コリント第一、2・3)に尽きる。パウロは「宣教の愚かさ」(1・21)―意訳すると福音的救済の使信の愚かさ-を「十字架につけられたキリスト」(1・23)と言い切る。宗教改革者、ルターの信仰義認論は、「十字架の神学」と言われる。復活の信仰とは、十字架につかれたイエスをキリストと信じるように導かれることである。それは宗教的徴を求めるユダヤ人からも、この世の知恵を求めるギリシア人からも遠い。

 十字架のイエスは知恵・富・力を求める、この世から見れば、敗者だった。しかし、 私は9・11テロと報復戦争の連続にうめきながら、やがて、戦後からイエスの弟子の末端に連なることを、今回程、しみじみと喜んだことはない。イエスは、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16・24)と命じておられる。

 私にとって、それは敵対する隣人に仕え、その足を洗う「僕」(奴隷)の姿に徹する道だった。私は「敵意という隔ての壁」が崩壊するのを見た。和解の福音こそ神の力であることを実感している。44年前、神輿を担いで教会の庭を踏み荒らした地域の人々が、韓国の長鼓と舞いに優しいまなざしを注ぐように変わった。「拉致」問題以降見られる民族衣装の朝鮮人少女のいじめは皆無であることを、川崎市は誇っている。

 川崎という限られた地域の新しい多民族共生の街づくりと、地球規模の戦争と紛争とを対比させることはおこがましい。しかし、十字架につけられたイエスに従う道の外、代案があろうか。私の友人、星野正興牧師の「ブッシュのキリスト教にイエスが見えない」との発言は的を射ている。敬虔なキリスト者と自認する者を一刀両断するのは厳しいが、今日の米国はそう見える。原始教会の内なる敵はグノーシス的仮現説だった。それはイエス・キリストの受肉を否定する反キリストの悪霊との闘いだった(ヨハネ第一の手紙4章参照)。