「天に名が記されている」ことを覚える―自戒をこめて― (2003年5月号) 石川 光顕
いま東京都は、急激な「教育改革」を進めています。その中身は教員の内と外からの徹底管理で効率を第一優先にし、競争を強いています。「協働」を叫びながら「縦系列の組織」を作ろうとしているのです。
その中でも私が一番力を注いでいることは、「総合的な学習の時間」という授業です。高校では、この4月から学習指導要領が改訂されるに伴い、全部の学校で実施されます。府中西高校では、昨年度からはじめて今年で、1、2、3年と全学年で、週一時間実施します。本校では通称「START」と呼んでいます。「START」のSはSelf(自分自身の興味関心に基づく)、TはThink(何を学習するか考える)、AはAct(自分たちで行動する)、RはRelation(「班・グループ」の中の関係を大事にする)、TはTry(自分たちでないとできないことに取り組む)を期待して名前を付けました。この授業の特徴は、教科書がないところに現れているように、教師の「創意工夫」が生かされるところにあります。1,2年640人の生徒と40人以上の教員を毎週把握し、今週何をすべきかの指示を流します。こうした考えは、私が30年来実践してきた゛生徒の生き方に関わる教育を求める゛方向と一致し、困難な中にも展望を見出せるものです。この取組の結果、2年生の中から「バイオテクノロジーと総合進化論」と題して98枚もの論文を書き、本人はその方向で大学進学したいと願っている生徒も出ています。
しかし一方教育現場では「目立つこと」で業績評価され、それによって特別に昇給するシステムも導入されています。本来教育という仕事は、実は目に見えないことが多いし、そこでこそ支え合う「共同」が必要であるにも拘わらず、私の「総合」の取組は、校長初め都教委に評価され、もっとも目立つところに立ってしまっています。私の位置は一体どこにあるのかと、悩みと矛盾のただ中にいるのです。こうした中で「天に自分の名が記されていることを喜べ」というみ言葉は、私の立っている所がどこか、鋭く私自身を正すのです。
ところで私は、この4月から伊豆七島の一つ神津島の高校へ異動します。島民2400人で、小・中・高と各一校ずつあり、神津高校の生徒数は約80名です。なぜ今島に行くのか一言では言えませんが、定年までの3年間を教育の原点に立ち返って、教育とは何か改めてじっくり考えてみたいと思って希望しました。 この共助誌が皆さんのお手元に届くころには、のんびりしているか、四苦八苦しているか想像できませんが、少なからずその歩みに希望を持っています。私の歩みを祈りに覚えて頂けたら幸いです。(3月20日記)