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自己絶対化の罪 (2003年7月号) 大塚野百合

 2003年3月27日の朝日新聞夕刊の第一面に、一人のアメリカ人の牧師が、警官に逮捕されている写真がのり、私はむさぼるように、その記事を読みました。「『信仰のプッシュ』どこへ」、「所属教派の戦争反対指導部との面会拒否」という見出しです。26日、ワシントンのホワイトハウスに隣接する公園でイラク戦争に抗議中、立ち退きを拒んで逮捕されたメソジスト教会の牧師は、ロバート・エドガー氏で、プッシュ大統領が属しているメソジスト教会の指導者であるとともに、36の主要なキリスト教派がつくる全米教会協議会の代表であるとのことです。この協議会の50人のリーダーたちは、2003年の1月に、大統領に「直接お目にかかって、米国が当面する道徳的な選択肢についてメッセージをお伝えしたい」という書簡を送りましたが、面会は拒否されたとのことです。

 この記事は、つぎのように述べています。「歴代の大統領の中でも、信仰にあついことが売り物で、ひんばんに『神』を引用するブッシュ氏だが、戦争遂行に役立たない信仰には興味がないようだ」と。数日前の同じ新聞によると、この大統領は、朝、説教集を読み、聖書研究会に出るそうです。  自分がある目的を定め、それに役立つ説教の言葉や、聖書の言葉だけを利用する-ということは、自分を神の位置にまで高め、はんとうの神ではなく、自分が作った偶像を神聖化することです。これこそ聖書が繰り返して警告を発している偶像崇拝です。自己絶対化という罪です。

 ところで、私は、プッシュ氏と、彼を支持している米国南部の保守的なクリスチャンの団体の信仰がはらんでいる問題性を批判しなから、ふと立ち止まって、自分に日を向けて、懼れを感じています。自分自身のなかに、そのような自己絶対化の罪があるのではないかと。「神さま、私を祝福してください。あなたに仕えるために、私の健康を守り、私の執筆の能力を増してください」と祈っているとき、神の栄光ではなく、自分のこの世的な成功を、自分の栄光を求めているのではないか-と。

 先日、私は、ヘンリ・ナウエンの本を読んでいて、このことに気付いて、懼れを感じました。平和を叫ぶとき、十字架を仰ぐ必要がある、と教えられました。今、ナウエンについて本を書いています。