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キリストを迎える(2003年12月号) 下村 喜八

 降誕節を迎えている。キリスト教にとって、降誕節よりも復活節の方が重要であるとも考えられるが、私にとっては、一年中で主を最も身近に感じることのできる特別のときである。

 私は幼少のころ病弱であった。2学期の授業が終わると疲労のためか、毎年のように体調を崩して床についた。そして、苦しみと侘しさを紛らわすために一日中ラジオをつけたままにし、そこから流れてくるクリスマス音楽をただぼんやりと聞いていた。この体験のせいか、讃美歌の中で特にクリスマス讃美歌は心の底まで染み入ってくるように思われる。また、生涯を振り返ると、私がキリスト教に抵抗感なく近づくことができたのも、病床で聞いたクリスマス音楽が大きく作用しているのかもしれない。そのような意味で、病床の体験は私にとって貴重であったと言える。しかし、降誕節を単なる行事にしてはならないのと同じように、情緒的で一過的なものにしてはならないと自戒している。私たちの苦悩と悲惨と病のすべてを担って十字架につき、すべての罪を贖い、復活して今生きて働きたもう現実としてのキリストを私の中に、私たちの交わりの中に迎え入れたいと思う。

 私たちの行動と価値観の根底をなしている利己主義を十字架につけ、キリストが私たちに代わって私たちの内に生きて働かれるようにしたい。そのような生は、けっして一般的な意味で幸福なものでも平穏なものでもないであろう。むしろ、キリストの苦難にあずかるものとなる。しかしまた、一般的な意味での苦悩や不幸は、「生きて苦しんでいるのはもはや私ではなく、キリストが私の内で生き、苦しんでおられる」(パスカル)ことを知るとき、それらに変化が現れる。また、喜びや幸福にも変化が生じる。苦しみの中に永遠の安らぎの光が、「幸福の日の中に永遠の厳粛さの光が射し込む」(プルンナー)。そのとき、苦しみと喜び、不幸と幸福の境界線は消滅するであろう。聖フランチェスコが眼の治療の際、麻酔もかけずに眼球を灼熱した鉄で焼かれるとき、「兄弟である火よ」と呼びかけたように、私たちに苦しみを与える者や事柄に対して兄弟と呼びかける可能性が開かれるであろう。

さまざまな問題をキリストと共に担いつつ、隣人や社会の問題にも無関心にならずに、真剣に関わることができるようになるであろう。そうでありたい。そうであることができるような形で、キリストを私たちの内に迎えたい。