平和への道 (2014年 6 号)金 明淑
主イエスは言われます。「平和を実現する人は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書五章九節) 人間誰もが平和を望みます。しかし人間が存在し始めた時から常に争いの状態が続きます。隣人を忘れ、我を強調する時、あるいは隣人と自分とを比較し始めた時に平和な関係は崩れます。カインはアベルと比較することで、我を忘れ、神を見失う罪に陥りました。その結果、カインの心から平和は失われ、罪の不安だけが募ります。
このように、人間の歴史はこの世の平和がいかに不安定、不確実であるかを示しています。また、外面的に平和な状態にあっても、人間はその不完全な存在の故に、不安に脅かされます。人間独自にはまことの平和を作り出すことも、平和な状態を保つことも難しいと言えます。人間は創造主による被造物だからです。人間の根本的な不安からの解放は、創造主に立ち帰ることで得られます。
旧約神学者のBruggermanは言います。「人間は??Who I am? ?と定義されるのではなく、? Whose I am? ?と定義されるべきである。」罪ある人間自らを追求するのではなく、誰に属しているかを追求することで立ち帰る場所を捜し求めることになります。まことの平和の場所へ立ち帰ることができます。
主イエスの時代に、平和を表すギリシア語が二つありました。
一つはPAXパックスという平和です。これは当時イスラエルを統治していたローマの強い声に息を潜めて静かにしている状態です。一見とても静かで何の問題もないようなPAXの平和は力に押さえつけられた状態です。ローマへ通じる道をPAXの道と呼びます。一人一人の声は聞こえてきません。このパックスの平和を維持するために人々は蛮声を張り上げ、鎧を被り、より強い武器を手に持ちます。 もう一つは主イエスの用いたエイレネという平和です。外側の何かによって息を潜めるのではなく、心の奥に蒔かれた真理の御言葉によって静かな喜びが湧き出る状態です。主なる神に出会う前の人間は罪を犯す自由に生きていました。しかし、主イエスのエイレネの平和に満たされることで神の義を行う自由に生きます。神がこの世に人となって来られました。そして、何も持たない裸のお姿で十字架にかかります。
今日もキリストは十字架の愛でわたしたちと共にいてくださいます。平和を得る人ではなく、平和を実現するクリスチャンとして生きる時に神の子と呼ばれる のです。
日本基督教団 甲府教会牧師)