成長する神の国  マタイによる福音書 13 章 31 ~ 33 節  木村葉子

からし種を見たことがありますか。以前、紙に包んだ黒い 粉粒を見たことがあります。アンパンに着いている黒いけしの実より細かでした。こんな小さな種が3メートルにも成長して、鳥が安心して巣を作る頼もしい木になるのですね。イエスは、たとえて「天の国」がどんなものか弟子たちに告げ ようとされました。わずかなパン種を、3サトン( 40 ℓ)のパ ン粉に混ぜて発酵させると膨んで100人分のパンとなって人々 を養うことができる、この様に似ていると。パンが焼きあが る時はとても良い香りが辺りに満ちて幸せな気分にさせられます。パン100人分という言い方が豪快で愉快ですね。

イエスは、12弟子を選んで「天の国は近づいたと宣べ伝 えなさい」と同胞の処へ派遣しました。弟子たちは勇んで宣 教し、人々が熱心に聞き入れた時の喜びとともに、反発を受 ける困難に気落ちしました。弟子たちはイエスを「神と民全 体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者」と尊敬し「あ の方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていた のです」(ルカ 24 ・ 19 、 21 )。

しかし、実際、イエスと弟子たち の小さな群れは、政治力や宗教的地位も財力もありません。 いったい「天の国」とは何か弟子たちはよく分かりません。

そこでイエスは、彼らを励ましてわずかなからし種やパン 種が素晴らしい働きをするように、今は、極小さくとも、来 つつある「天の国」は、反抗する者があっても確実に成長し てその結果は極めて大きいと教えたのです(他の福音書の「神 の国」を、マタイ福音書では、「天の国」と表し多用しています)。

しかも、イエスは、「天の国」は、畑の中に隠された宝や、 驚くほど稀で高価で美しい真珠のように、その真価を発見し た者は、財産の全てを投げ出しても手に入れる程、比類ない 宝ものだと教えたのです。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」との宣言は、バプテスマ のヨハネに始まり、イエスも、弟子たちも同じくそう呼びか け宣教しました。ヨハネは約束のメシアによる神の国の来臨 が切迫している今、律法による悔い改めと洗礼による生き方 の変更(実)によって神の審判に備えよと命令しました。緊急 な悔い改めの必要です。

イエスは、ヨハネが牢獄に捕らえられた時から、宣教を始 められ、「神の国」について繰り返し人々に教えました。山上 の説教で、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人た ちのものである」「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタ5・3、 10 )と祝福され、 また、「主の祈り」で「御国が来ますように」と祈ること、そ して、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と教えました。

イエスを「聖霊と火で洗礼をお授けになる」「麦を倉に、殻 を焼き払われる」「優れた方」として指さしたヨハネが牢獄の 中で、本当にイエスが来るべきメシアなのか迷い悩み、弟子 を送って質問した時、イエスは、「目の見えない人は見え、足 の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、 死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私 に躓かないものは幸いである」(マタ 11 ・5)と、イザヤ 61 章 の預言の成就で答えました。イエスの宣教のあり方は、故郷 ナザレの会堂で、イザヤ書の朗読に象徴されています(ルカ 4・ 18 )。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ 知らせるために」(イザヤ 61 章)。イエスの宣教により、律法と 預言者の時代は終わり、新しい時代が幕開けました。失われ 傷ついた貧しい人々の癒し、救い、捕らわれ人の解放と自由 の「主の恵みの時」が「今日、実現した」(ルカ4・ 21 )からです。弟子の宣教においても「失われた羊、イスラエルの人々 の元へ行って、病人の癒し、死者の復活、重い皮膚病の清め、 悪霊を追い出しなさい」と一貫しています。イエスの福音宣 教により新しい教師を通して、神の愛と恵みと赦しが直に人々 に届けられることが実現したからです。暗黒の淵に住み絶望していた人々へ、救いの希望の光が差し込んだのです。恵み と真理がイエスを通して現れ、御国と地上が結ばれ「神の国」 が地上に成長する新時代が始まったのです。イエスという血 の通った人格を通して愛と恵みと赦しと救いが始まり、「神の 国」の終末的啓示の時代に入ったのです。

このイエスの力強い福音宣教により、日増しに群衆が集ま りました。しかし、聴衆は聞き入れる者と、聞き入れない者 に二分されました。イエスは、まず、たとえで群衆に語りました。種まきのたとえ、種が鳥に食べられ、石地や雑草の中 に落ちて実を結ぶに至らない場合と、良い地に落ちて何倍も の実を結ぶ場合について語りました。

弟子たちが、なぜたとえを用いるのか尋ねると、イエスは「あ なたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あ の人たちには許されていない」( 11 節)といわれた。聞いて従 う人、つまり、弟子たちには、たとえを説明して「天の国の 秘密」を知らせるが、聞き入れない者には、たとえだけを話 されるというのです。「誰でも御国の言葉(まかれた種)を聞 いて悟らなければ、悪いものが来て、心に蒔かれた御言葉を 奪い去る」( 19 節)。「石地とは、はじめは熱心に受け入れても、 困難や迫害のために御言葉を捨て離れてしまうこと」「雑草と は、この世の価値、名誉、楽しみを優先して離れてしまうこと」 これらの背後にはすべて悪い者、人々を御国の言葉から引き 離す誘惑者、悪魔がいることを教えました。

「聞いて悟る」とは、単に知ることではなく、神の言葉に従 う決心、自分中心の生き方から、神を王座に仰ぎ、価値観が 変わり、人格と生活が整えられていく具体性を伴います。ま さに、種が、発芽し命の働きが始まること。成長して葉をつ け花が咲き何倍にも実るまで、天からの太陽と水、空気、大 地などの養いを必要とするのです。神に祈り、学び探し求め、 働き、感謝し従う、神とともに歩む生活です。

「毒麦のたとえ」(マタイ 13 ・ 24 )では、良い麦と毒麦が混在し ている畑では、収穫の時を待って小麦と毒麦を誤りなく選別 できるので収穫の時まで待つことを語りました。毒麦は、小麦と同族だが有毒で、穂が出るまでは区別ができません。毒 麦は焼かれて燃料とされました。ローマの法律では、復讐のた めに他人の小麦畑に毒麦を蒔くことは禁じられ刑罰を受ける行為でした。「毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」( 29 、 30 節)。「毒麦」と「魚を選別」するたとえでは、終末の厳粛な審 判が告げられています。「良い種は人の子(イエス)が蒔いた御 国の子ら(弟子、信徒)であり、毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り 入れは世の終わり、刈り入れるものは天使たちである。」だから、弟子よ、今、裁きは神に任せなさい。待ちきれずになぜ、 悪い者が栄えるのかと呪ったり、人を悪者だと決めつけたり、 神はなぜ悪を許すのかと心を煩わせてはいけない、冷静に敵 の悪魔の働きを見極めなさい。敵のそそのかしに心を乱され て、よもや、信仰と希望と愛を失ってはならないと。

思うに、イエスのたとえは印象深く含蓄があり、直ぐに意 味が分からなくても、思い出して、「良い地」、「よい種」とは 何か、「毒麦」とは何かと考え味わうことができます。「狭い 門から入れ」とか「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが 針の穴を通る方がまだ易しい」というように、この世の価値 と逆で、「豚に真珠」や「らくだと針の穴」のようにユーモアがあります。からし種の木に鳥が巣を作るとは、詩編 84 編 「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて雛 を置いています。」を思い出させます。あちこち探し回った末 に神殿の軒端に、安心して子育てをする鳥たちは命を与えた神に守られている。詩人は神のもとに生きる幸いを詠い、ま して人間は鳥以上の高価な存在として愛されていると神を讃 美しています。現代も聖書のイエスのたとえにある安らぎや 英知、高い精神、世になき幸い、天の国の音信に魅せられて、 磁石に寄せられる鉄片のように集められ主の弟子(クリスチャン)になる人は必ずいます。御言葉を受け入れられず無視し 拒絶している者にも、イエスのたとえの印象深さは、放蕩息 子の父親のように門に立ってあなたを待ち望む姿、御神の寛 やかな慈愛を湛えて招いていると思われます。

「天の国の秘密を悟る」( 13 ・ 11 )とは何でしょうか。この「天の国の奥義」ミステーリオンとは、四福音書ではここだけに 使われている言葉です。この単語はパウロにとって重要な言 葉です。神の真理は啓示を通して来り、霊的な悟りは与えられるものです。悟らされる秘密とは、神の国の性質、その成長、 入るための資格、神の国が弟子に要求していること、弟子の 特権です。たとえは、敵意を抱いている者や単なる興味本位 の者には単純な物語に過ぎない。しかし、まず御言葉を受け入れ、その秘密を知った者はますますその奥義を知らされて いくということです。

神の国に入る資格は,知恵ある賢者に隠され、幼子のようなものに開かれています。恵みと真理の業がイエス・キリストを通して身近に表れている稀な宝物に素直に感動し神に信 頼することです。特権は御国の奥義を知ること、イエスの十字架による罪からの救いを信じる救いです。イエスの招く「神の国」にはイエスの十字架が有ります。イエスには十字架の 死と復活による罪の贖いを人々に与え人生の牢獄から自由に し「神の国」の住民とする権威が有ります。イエスの愛と恵 みによる招きに、誰もが、今日、この場で応答することが切 に求められています。イエスの「神の国」は、聖霊によって 初代教会の教会(エクレーシア)共同体に成長し、パウロにおいて「神の国は、義と平和と聖霊にある喜び」と示されました。 「神の国」は全ての被造物に関わります。イエスは「神の国は あなたがたの間にある」と教えました。「神の国」は今、私たちの間にあるでしょうか。

「悪い者」が活動している傍らで、神の国がひそかに成長す る時代は終わりがあります。天の国が栄光のうちに完成するという秘密を知る特権を与えられていることは驚くべきです。 43 節「その時、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」

イエスの「天の国」とは「父なる神の国」と一体です。 51 節「これらのことがみな分かったか」と問われて「分かりま した」と答えた弟子たちを「天の国のことを学んだ学者」で あるとイエスはいいます。弟子たちは律法の古い教えも、新 しい福音も取り出し教えることが出来る。「すべての民を弟子 にしなさい」( 28 ・ 19 )。「神の国」は場所ではなく、神の義と 慈しみ、まこと、平和の支配が及ぶことです。イエスの再臨 によりやがて完全に実現する新しい秩序です。「わたしは口を 開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを 告げる」( 13 ・ 35 )。主は小さい私たちを何と大きな期待をもっ て用いようとされている事でしょうか。

この7月、衆議院で戦争法案と呼ばれる安保法案が民意 を無視して強行採決され、参議院で審議中です。増々首相答 弁の虚偽と法案の危険性が露わになり、政府は法案が米国アミテージレポートに酷似しながら関連を否定し、徴兵制は絶対ないと断言する裏で、企業の新人研修に2年間の自衛隊訓練を導入する経済的徴兵制を画策しています。若者の世代の シールズが平和憲法の否定、戦争への危険と反対の声を上げ、 続いて各世代の反対運動が全国に広がり、8月末には国会前 12 万人初め全国各地で今までにない規模と自主参加の新しい デモ行動に発展しました。私が属する教団の夏の全国青年大会で初めて「政治の向き 合い方」という新分科会が作られ、そこでどれが本当の情報 か分からない悩みと共に、クリスチャンとして単に反対する だけでなく、「敵を愛する」という言葉をどのように考え行動 したらよいかという真摯な声が複数上がりました。本や現場 に当たり自分の意見を持とうと話していました。丁度、次の 日、東京の教職員のトールズの声明の記者会見を見たいと来 た消防官の若者がいたのは嬉しかったです。シールズの発端 にはミッションスクールの学生も多く愛真高校卒業生も多い と聞きました。特別秘密保護法に反対する牧師の会や、「キボコク」の教会青年やキリスト者平和ネットなどの呼びかけで 以前より国会周辺で、この国のために祈る会がもたれてきま した。シールズに対する誹謗や攻撃や、賛同者の過剰な期待 や要求は、激しいもので、プレシャーにサタンがすきをうかがいます。信仰においても危険なものです。多くのとりなし の祈り手をどんなに必要としているでしょうか。切なる祈り手のいる平和人権運動こそ新しい形、新しい希望です。これ は御国の闘いだからです。

教会内に多様な意見立場が当然で(1コリ 12 章)、互いに尊重し合い祈りが必要です。シールズの中心にいる若者の発言 は、冷静で全方向から聞こうとする思慮深さがあります。私たちも戦後の歩みを悔い改め、祈る者にされたいものです。