永遠の契約と十字架 木村 葉子
「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(創世記9章16節)
思いがけず大空に美しい七色の虹を見つけると、私たちのうつむいていた心が天を見上げ、希望が注がれる。アダムが神に離反し罪に汚れた人類に対してもなお、神は永遠の契約で「神のかたち」(創世記9・6– 7)の故に一方的な祝福を約束しておられる。エジプト奴隷からの解放を契機とした十戒(申命記5・3―21)のホレブ契約は、先祖ではなく「今ここに生きるすべての民と結ばれた」祝福と人間の責任を求める契約である。旧約聖書の申命記から列王記は、王国の滅亡や捕囚をイスラエルの契約違反に対する神の審判として記述され警告している。
受難節のただ中、連日、ロシア軍のウクライナへの余りにも残虐非道な侵略が続き尊い命が奪われている。ニュースを見るのも耐え難い、花が咲いても心が痛む日々である。各国で戦争反対の声が上がり一刻も早い停戦を願い祈っている。ポーランドでは教会も難民支援所となり避難民を世話している。国を越えて、停戦実現のために心を尽くして奔走している政治家や人々がいる。背景にはソ連崩壊後の両国の歴史やアメリカやNATOとの関係や隠れた理由もあるに違いない。廃墟の街で爆撃を受け死傷し悲嘆に泣く人々の姿に衝撃をうけ、子どもの頃、家族から聞かされたB29飛来や空襲の恐怖はこの様だったかと、日本の東アジア侵略戦争の暴挙、戦争責任の重大さを思わせられた。負の歴史を持つ日本はどの紛争にも軍事加担してはならない。犠牲の上に手にした、殺さない殺されないための戦争放棄の憲法9条である。戦争を始めてはならない。平和外交を尽くし戦争を回避することがどんなに必要か痛感する。
アフガン戦争中、砂漠に用水路を通し住民の生活と命に仕えて凶弾に倒れた中村哲医師は「武器は敵を作り、決して平和をもたらさない」と警告していた。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26・52)イラク戦争では米英側が侵攻した。戦争は常に正義を理由に始まり、人々を巻き込み拡大する。戦争は侮辱により双方憎悪を燃やし、人間を誘惑し人間性を失わせ、虚偽と暴走へ引きずりこむ闇の力である。世界の数千発の核兵器の現実と戦争。「罪」の深刻さを突きつけられている。世界各地、シリアやミャンマーや他の戦乱の早期の停止のため、平和の神に叫び国々の指導者と一人一人が平和のため成すべきことを導いてくださるよう共に祈りを捧げたい。
20世紀、人類は2度もの世界大戦の破局を経験して、国連諸国で「人権の無視と侮蔑が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為を生んだこと」を反省し「世界人権宣言」が採択された。国際平和のため、人権の尊重、友好、主権・自決尊重、武力でなく外交・協定による紛争の解決を再確認し「法の支配」によって保障する「国連憲章」が制定された。「人権宣言 第1条 すべての人間は生まれながらに自由であり、尊厳と権利において平等。人間は理性と良心を授けられており、互いに同胞の精神をもって行動すること。」戦争は「人間の尊厳」を踏みにじる。プーチン大統領はこれらの国際法を侵犯している。
この人権尊重の精神は日本国憲法にも入った。しかし、日本の各項の人権実現化は国際比較でも低い。この危機に、改憲や軍事強化の声や元首相から核共有の暴言が出た。核被爆国であり戦争放棄の9条を持つわが国は、積極的な平和外交修復の努力こそ責務だ。岸田首相は、自民党憲法草案による「憲法改正」を急ぎ、7月の参院選挙で改憲座席獲得を画策している。この実現化は日本の歴史の逆向点になりかねない。この草案は、「憲法9条、自衛隊の明記 軍隊の設置」と、「第97条基本的人権の本質」の全面削除が重大である。憲法の最高法規の、基本的人権、国民主権、平和主義の三原則を「改憲」する「壊憲」といわれている。『人権思想とキリスト教』の著者である森島 豊は、特にこの97 条削除を指摘し、ホーリネス系教会の2021年6月の「弾圧記念聖会」講演でも指摘し警告した。
【第97条 基本的人権の本質】この憲法が日本國民に保障する基本的人權は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの權利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の權利として信託されたものである。
歴史上、自由獲得の努力には、奴隷解放宣言やキング牧師の公民権運動、諸国の独立運動がある。わが国には、幕末1883年に生まれた矢嶋楫かじ子こ が、「キリスト教婦人矯風会」を設立し、救世軍の山室軍平らと共に、一夫一婦制、婦人参政権、廃娼・禁酒運動、男女同権に尽力した功績は大きい。9条の護憲運動や広島長崎の被爆者、水俣や福島の人権訴訟があり、反原発が闘われている。コロナ禍の中、貧富の格差や法的不整備が露わになり野宿や自死が急増し、自助や共助の限界を超えた。森友学園関連の公文書改竄事件など国政国権の乱用、腐敗、人権の蹂躙は幾多有る。97条削除は、この権利獲得運動への国からの強力な弾圧となる。
草案の97条削除の理由をQ&Aでは《自然権としての人権は前提で、草案11条「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的 人権は、侵すことのできない永久の権利である。」とした。人権は神から人間に与えられるという西欧の天賦人権思想の表現を改め、97条を削除した。「個人」を「人」に変更した》。起草議員は「日本には神道、仏教。なんでキリスト教の神様から与えられた天賦人権の、そこ(97条)をみんな取りました」と説明した。日本の伝統文化歴史に沿う「新しい人権」に改正し、個人の人格権・自由権を法律で制限する統制が目的である。先の「教育基本法改正」と同根である。戦前、学校が、教育勅語による皇民化軍国教育を進め教え子を戦場に死傷させた誤りから、1947年教育基本法を制定し教育への国政介入を排し、個人の尊厳と国民の教育権を土台とした。
しかし2006年改正が強行採決された。12月の寒い夜数千人の市民や教員が国会を取り巻き抗議し涙を流した。今や教科書や学校体制の政治介入は激しい。2021年ユネスコ調査では、日本の国の公的教育費支出は国内総生産GDPの3.2%で世界113位に低下。教員不足や奨学制度に問題。教育環境低下は生徒の人生に著しく影響する。一方、都公立学校ではコロナ禍で卒業式無しでも、「君が代」の音声を流し教員に起立の職務命令通達が出ている。命令18年目、不起立処分の教員の処分撤回裁判が今年も15名原告で続く。原告は「子どもの心を大切に自由で平等な学校や社会を作りたい」「命令と処罰で進める教育はおかしい」と訴える。「命令」は異常だと思っても話題にするのがタブーとなった学校。自由・自律の精神を育てるに学校は教員も生徒も困難な所に変えられた。
人権法制化の起源は、カルヴァンの「神への服従は人間の支配者の命令・義務に優る」とした信教の自由の闘いに発し、これを根拠とする「抵抗権」の思想は、後のピューリタンにも受けつがれ、宗教的根拠に基づく「人が生まれながら持つ人権」という「自然権」へと表現された。これは、17~18世紀にロック等の啓蒙思想による社会契約論を契機に、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言が成立し、各種の法律を生みだした。
啓蒙主義は理性の光で無知偏見をとり除き、合理的で普遍的な社会秩序を建てるための数世紀にわたる思想運動となり、古い教会中心の社会から近代を開いた。キリスト教の不合理な教理、奇跡やキリストの神性、啓示、復活を排し、理性的な宗教の「理神論」が唱導された。人間中心の価値観や近代民主主義をも生みだした。政治の歴史では「強者の支配」か「自由な共存」かが問われる。所有権の保障など人権内容や究極的根拠は多様となり、19世紀には、社会権も加わり、無神論も提唱された。キリスト教では人権の根拠を「神の像」としての「人間の尊厳」とイエスの新しい掟「隣人愛」に基礎付けている。
日本では、明治初頭、啓蒙思想による自由民権運動家が憲法草案を創り、植木枝盛はキリスト教の影響下「抵抗権」を明記したが、明治新政府は1889年明治憲法を発布して弾圧阻止した。天皇は「徴兵の詔」で皇民の「上下(身分)を平均し、人権を斉一」にして下賜され、治安維持法のように法律で制限された。森島 豊は著書で、97条削除案により人権継承のために重大な決断を迫られていると、国民の人権形成力の欠如を警告している。日本では平等・均一の意識は高いが、安保法制のように強引決定でも一旦決まると反対運動を起こさない。日本の人権は欧米と異なり抵抗権を欠く。天皇下賜の国賦人権の理念が浸透していて国に逆らわない。現行憲法でも国体の持続が国会審議に宣言され、象徴天皇制、天皇の神道祭祀、憧れの皇室という文化政策によって現在も国賦人権の理念が国民に広く根付いている。明治政府が創作した、天皇不可侵・神性天皇制の一君万民の統一理念は、抵抗権を欠く「特殊な人権」の平等思想と結び付いて天皇への熱狂的忠誠心を抱かせ暴走し一億総玉砕で太平洋戦争へ突き進み国も止められなかったという。「抵抗権を欠く人権」が人権意識を低くさせている。私も教育裁判の判決文や人権実現のための各省交渉の回答に思い当らせられる。
人間らしく生きられる社会のために作られた「人権の法」も理性や良心が働かなくては虚しく非力である。これらを根底で支えるものは何か。日本の厳しいキリシタン禁制の歴史の契機は秀吉や家康が、高山右近や長崎の娘や侍女の信徒が「神と君主のどちらに従うべきか」と自問し天下の権力者を拒否する力を持たせたキリスト教に為政者として衝撃と脅威を受けた故という。信徒は下層民も手厚く葬る宣教師たちの態度から神に愛されている自分の価値を知り喜び尊ぶ信仰を得た。この為政者の鋭い警戒は明治以降も続き、現人神(あらひとがみ)天皇国家を創設しキリスト教の抵抗権を骨抜きにしようとして来た。この神の愛を伝えることが日本の宣教の課題である。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ローマ5・8)
受難節の今、罪人の救いのために御子をも惜しまず死に渡された神の御業を覚え、キリストの十字架を見上げつつ、マタイ26章36 節以下を読みたい。受難の目前、ゲツセマネの園でイエスは弟子を側に神に祈られた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」イエスは悲しみ悶えて祈られ、苦しみ悲しみを吐露された。しかし弟子は理解せず、孤独に一人祈られた。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
「父よ」と呼ぶ言葉に、父と子の親愛と信頼が溢れている。古い2つの絵画には、大岩に身を伏して祈る姿と、闇の中天上の光を見上げて全身全霊で祈る姿がある。かつてイエスを憎む者たちが安息日に病人を癒すイエスの律法違反の証拠を得るために注目していた時、イエスは怒り彼らの頑なな心を悲しみながら病気の人を癒された(マルコ3・5)。彼らは証拠を握ると早速イエスを殺す相談を始めた。イエスは自分を殺す敵を悲しまれた。愛を欠き病人の治癒を罪過とする善悪が転倒した頑なな心を。この深く罪に囚われた罪人を悲しむイエスは、神の愛の眼差しで彼らを見ていたからである。今や、逮捕が迫っていた。しかしこの時、イエスの悲嘆はそれ以上であった。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。ついに御子として、父のみ旨である罪人の救いの計画の成就を心深く受け留め、父への愛による従順と謙遜によって苦難の死に従われた。罪人とは悪に組し神から離反している者である。「イエスは民の罪を償うため、すべての点で兄弟と同じようになられた」。父なる神との交わりを絶たれる罪人としての死である。祈りに父の応答がない神の沈黙は、私たち罪人の想像をはるかに超えた霊の苦しみである。イエスは、園の祈りから、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれた死に至るまで深く悲しまれ苦しまれた。
その十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)とむち打ち侮辱した兵士や死刑をと叫んだ指導者や議員、すべての人々の赦しを神にとりなし祈られた。これは「人類が耳にしうる至高の祈り、大祭司としてのとりなしの祈り」(ヘブル17章)である。この祈りは、かつて弟子たちのためにも何度も祈られたに違いない。ペテロが「サタンよ。下がれ。あなたは、神のことを思わず人のことを思っている」と叱られた時にも。迫害者パウロのためにも。それは、安易な「十字架のない福音」を求めやすい私たちのためにも、全ての人のために今も主は神にとりなしておら
れる。イエスは受難の盃を引き受け、すべての罪人の罪と裁きの死を負ってくださった。この十字架の死なくして、罪人を贖う救いの道は開かれなかった。「恵みと悲しみ、一つに溶け合い、茨はまばゆき 冠と輝く」(讃美歌142)何と類なき高価なキリストの救いだろうか。
迫害者パウロは、ダマスコの途上で復活のイエスに出あい、アナニアに助けられてイエスを信じる信仰を与えられた。以前、律法学者の彼は、十字架に死んだイエスは神に呪われた罪人(申命記21・23)、彼をメシアというクリスチャンは神を冒涜しユダヤ教を破壊する輩と憎み正義から迫害した。しかし、天からの光と「何故私を迫害するのか」というイエスの声を受け打ち倒された(使徒9・3)。わたしはこの聖きイエスを迫害しているのか。見えない自分。何という善悪の転倒か。聖なる者を十字架にかけ殺した自分達こそ、神に呪われるべき者。どうしようもない羞恥と絶望。しかし、イエスは弟子を通して手を伸べ聖霊は彼を神へと連れ戻して(贖われて)赦され癒されたのである。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちはこのことの証人です。」(使徒3・15)彼は赦されてキリストの福音の真理を力強く語る者と変えられた。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(Ⅰコリント1・30)
罪なきイエスを十字架刑で殺したこの世の悪は、「神の聖き永遠の契約」を踏みにじった故に裁かれ完敗した。御子であり人であるイエスの十字架の死により「神の義」は成就し、永遠の契約は貫かれキリストは世の罪に勝利した。荒野に「新しい契約」の道が開かれた。罪人には神への救いの道が開かれ、神の救済史は貫かれて現存し約束の神の国へと向かっている。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15・12)とイエスの隣人愛の教え。「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」(Ⅱコリント4・4)。この「神のかたち」であるイエスの人々への関わり方は、主を否んだペテロに三度も「わたしを愛しているか」と触れて癒し宣教へと立ち上がらせた力強い人格的対話と愛に満ちている。光に自分の罪が見えてくる。溢れる神の愛を受けてゆるしの道、回心へと導かれ、聖霊によって真理を悟る。パウロも終に自らを「罪人の頭」という程に砕かれ愛の人とされた。神の義と憐みを感謝して受け続けてこそ、理性も良心も命を吹き込まれ潤され働くものとされる。潤う種のように芽を成長させ実る。
森島 豊の著書によると、理神論が流行し、啓蒙思想の理性が重んじられていた時代、一方で潜在的にキリスト教思想が人権形成に影響を与え、その例が信仰復興運動だという。18世紀、英国では産業革命により都市に溢れた貧者や炭鉱の労働者が教会からも締め出されていた。ウェスレー兄弟と仲間は、彼らのため市場や炭鉱で説教し福音を伝え、信徒の組会を作って互いの信仰と生活を向上させるメソジスト運動を始めた。新大陸アメリカではエドワードとホイットフィールドの説教による「大覚醒」が始められた。これらの説教運動で飢え渇いた魂が、キリストの十字架の救いと神の愛を知り次々と救われていった。「彼らの説教には人の心を動かす力があり、神に愛されている自己を発見する経験を与えられた」。またチーャルズ・ウェスレーの「わが魂を愛するイエスよ」や、今も英国の結婚式で歌われる「天なる喜び」、アメリカ人の好きなニュートン作詞「アメージンググレース」などの讃美歌によっても、聖書の神とキリストと聖霊の救いの恵みとは何かとの教理を正しく知らせ、罪の贖いによる聖い生活と愛を養うことに大きな働きをなした。今も人気のヘンデルの「メサイア」も「理神論」に反対し正しい福音信仰を知らせるものだった。
ボッシュの著書によると、1776年アメリカ独立時、教会員は人口の5%、1800年には倍増し劇的に根本的に変化しメソジスト、バプテスト、長老派や他の教会の目覚しい成長が社会改革に影響を与えた。以後成長し1970年の60%のピークまで続いた。その中で痛ましい南北戦争1865年がすべてを変え、覚醒運動によって形成された福音派の一致は崩れ、左にエキュメニズム(教会一致促進運動)と社会的改革を強調する流れと、右には正統性を主張する福音派の流れ、20世紀初頭には、前者は社会的福音の動きと後者は根本主義へと変化していった。今日の世界は、人間中心の世界観が広がり、「科学技術や、権力、幻想的宗教」などにより自己分裂に苦しむ人々の課題がある。しかし、人権を支える「神のかたち」による「人間の尊厳」と「隣人愛」の尊重の発見は人類の土の器にもられた宝である。
戦乱の爆撃された廃墟の中で悲しみにくれる人々やなお侵攻する戦車の群れをニュースで知り、なぜ神様は戦争を止めて下さらないのかと思い暗くなる私たちである。愛する人を殺され生活を破壊された戦地の人々にかける慰めの言葉は思いつかない。地面に「子どもがいる」と書かれたウクライナの避難所の劇場さえ爆撃された。その人々や子どもたちの痛み悲しみ絶望を思うことは悲惨過ぎて思考停止になる。そんな戦争が続いている。受難週の十字架を見上げる。何と無残な十字架のキリストだろうか。私たちは何度も主を十字架にかけているのか。無残に殺され悲嘆にくれる人々と同様になり最も近く共におられる慰め主はキリストである。キリストこそ最も貧しく悲しむ人、義に飢え渇き清い平和の主、最も義のために迫害された愛の人である。私たちを悲嘆と挫折と絶望の底から、新しい命と主と共なる歩みに立ち上がらせることのできる方は復活のキリストである。砕かれた魂を根底から支えておられる。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5・17)、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16・33)
(ウェスレアン・ホーリネス教団ひばりヶ丘北教会協力牧師)