キリストはすでに働いておられた― 浪江 ・小高の地にて 飯島 信

夏季修養会:閉会礼拝説教

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。

ローマの信徒への手紙 第1章16―17節

皆さんが語ってくださった感話の最後に、感話に代え、私はショート・メッセージとしてお話ししたいと思います。内容は2つ、この4月から赴任した浪江と小高で経験していること、そして、私たちが負わなければならない課題です。

始めに、お手元のリーフレットの表の写真をごらんください。4月に赴任する前、今年の2月に、同じ地区の牧師が撮り、送ってくれた浪江伝道所の外観です。写真に写っている建物は、解体する以外にないと思われる牧師館で、教会堂は牧師館の左側同じ敷地内にあります。

2011年の3・11以来、長い間居住制限区域にあった日本基督教団 浪江伝道所は、一切の時が止まっていました。昨年夏に訪れた時は、門から会堂入り口までの5メートルほどの道は、背丈まである雑草で覆われ、道はおろか、入り口がどこにあるのかも分かりませんでした。辿り着くには、持っていたカバンなどで草を払い除けながら進む他ありませんでした。

さらに、玄関に辿り着き、中に入ったものの、靴箱の下の方は穴が開き、会堂内の天井も何カ所も穴が開いたままでした。今にも崩れそうな窓枠の網戸は破れ、窓には蜘蛛の巣が張っていました。

3月の終わりに、石川光顕さん、光永 豊さん、湯田大貴さんの助けを借りながら小高伝道所牧師館への引っ越しを終えた私は、初めての主日である4月3日、まず浪江で11年ぶりの礼拝をしようと思いました。教会員は一人もいない伝道所なので、一人で礼拝を守ろうと思いました。ただ、それでも、もしかしたら、もしかしたら、誰か訪れて来るかも知れない。そのために、せめて会堂内の長椅子を拭き、準備をしたいと思いました。でも、電気も水道も通っていません。また、私は車の免許を持っていません。仕方がないので、浪江駅から二つ先の駅にある小高伝道所で、水で濡らした雑巾をビニール袋に入れ、浪江伝道所まで運び、椅子を拭きました。前2列、4つの椅子を拭くともう真黒で、それ以上拭けませんでした。

礼拝が始まる午後3時が近くなったので、講壇に上り、祈っていると、外で車が停まる音がしました。誰も来ないはずなのに、一体誰だろうと思い入り口を見ると、小高伝道所のただ一人の80代の教会員が、避難先のいわきから夫の車で浪江まで来て、講壇のお花を持って来てくださいました。こうして、時が止まっていた浪江伝道所で、11年ぶりの礼拝を2人で守ることが出来ました。

教会とは何か、と問われるなら、私は、神様を信じる者が共に礼拝を守る場所と答えます。

それ以上でも以下でもありません。ただ神様を信じる者が共に礼拝を守る所、それが教会です。

しかし、原発に最も近い浪江伝道所の牧師となることに手を挙げたものの、正直に言って、私は途方に暮れていました。教会員が誰もいず、知っている者も一人もいないこの土地で、この荒れ果てた伝道所をどのように再建し、礼拝の明りを灯せると言うのだろうかと。取り敢えず、浪江町役場と東北電力に連絡し、水道を開くことと電気の開通をお願いしました。さらに、水道業者に依頼し、地元の建築業者を紹介してもらい、天井の穴や靴箱の穴を修理してもらいたいと思いました。

依頼してほどなく、建築業者が訪れたので、修理箇所を示し、見積もりを出してくれるようお願いしました。しかし、約束の日になっても見積もりが届きません。電話をしました。浪江伝道所の礼拝を再開するのに、どうしても天井や靴箱の穴を塞ぎ、小動物が自由に出入りするのを防がなければなりません。電話口で、業者は、分かりましたと言ってくれました。決して悪い対応ではなく、私は待ちました。しかし、待っていても見積もりは届きません。私は、再度電話をしました。その時はすでに、地元の他の業者にも電話をし、修理がしてもらえるかどうかを尋ねていたのですが、どの業者も結論は丁重に断られました。ですから、最初に依頼した業者だけが頼みの綱でした。しかし、結局、見積もりは届きませんでした。

私は、知らされました。理由は分かりません。ただ、この浪江伝道所の会堂修理を引き受けてくれる地元の業者は誰もいないことを。私は、自分に修理する力が無い事は分かっていましたし、半ば諦め、浪江では、穴は開いたまま礼拝をするしかないと思いました。

すると、ある日、突然、私が生活している小高伝道所の牧師館のベルが鳴り、一人の見知らぬ方が立っていました。仙台の名取教会の長老の方で、建築業を営んでいる方でした。名取教会の牧師から浪江伝道所のことは知らされていたが、宮城ではなく福島なので、業者間の仕事の範囲を考えると難しいとお断りしたけれども、今日は時間が出来たので、様子だけでも知りたいと思って来たとのことでした。私は、藁にもすがるような思いで、すぐに日時を決め、浪江に来ていただきました。30分ほどかけて修理を希望する箇所を一通り説明したのですが、終わった後もその方は帰る様子がありません。そして、もう少し丁寧に見たいのだが良いかと尋ねられたのです。その方は、依頼もしなかった屋根まで上り、全体で2時間もかけて会堂全体を点検してくださいました。

その後、本来の仙台での仕事の合間を縫って、車で1時間半もかけて浪江まで来てくださり、屋根や天井や靴箱の開いていた穴に止まらず、窓枠や網戸の修理、会堂前面の壁に張り付いていた蔦をはがしたり、除草剤を散布するなど、まるで自分の教会のように仕事に入ってくださったのです。

助け手は、その方だけではありませんでした。門から入り口までの草刈り、11年放置されていた台所用品のお皿や茶わんを洗ったり、蜘蛛の巣の張っている椅子やマットの運び出しなどに、次々に教団以外にも他教派の助け手が現れ、門から入り口までの道には砂利が敷かれ、整えられて行きました。

そうしたある時の事です。若い青年と草を刈っていて、休憩の時間となりました。疲れて、外の椅子に座っている時のことでした。すぐ隣りから声が聞こえました。

「疲れたかい?」

思わず私は答えました。

「ええ、少し疲れました。でも心地よい疲れです」と。

初めて聞いたイエス様の呼びかけでした。

そして、今ははっきりと分かります。

確かに私は、浪江と小高伝道所に手を挙げました。

そして自分は、荒れ地を開拓をするために神様に召されたと思っていました。

でも、違ったのです。

人が誰も立ち入れない原発事故のただ中において、すでにキリストは働かれていました。そして、教会の再建に必要な人々を準備して待っておられたのです。私は、ただ牧師という職務を持つ者として、キリストに招かれた一人に過ぎないことを知らされました。

あの、呆然と立ち尽くし、途方に暮れた浪江伝道所に、今、再び礼拝の明りが灯りつつあります。キリストによる信じられない出来事が起こりつつある様を、今、この目で見、この耳で聴き、この手で確かめることが許されています。

森 明の覚えるキリストのリアリティーを、私は今、そのほんの少しでも知らされたように思います、この浪江、そして小高の地にてです。

あと一つ、荒川さんも、藤さんも片柳さんも言っておられるように、世界は変わりました。

暴力が牙を剥む き、自らの正義を振りかざし、誰をもはばかることなく専横に振る舞い始めています。そして、私たちの日本も、その嵐に翻弄され始めました。

この時、私たちの立つべき土台はどこにあるのかです。共助会は、その土台に立ち、世にその土台を示し得るかです。

キリストに忠誠を誓い、キリストの教えに従おうとするなら、いかなる状況に置かれようとも武器を取る道を選び取ることは出来ません。しかし、現に、日々目の前に立ち現れるウクライナ戦争の現実、ミャンマーで起きている出来事、タリバンによる支配や中国の香港及びウイグル族に対する圧制などを目の当たりにしている私たちは、それでも絶対非戦・非暴力を言えるのかが問われています。

難しい問題です。自分に降りかかる試練ならまだしも、妻や子や孫などの家族に降りかかる危難を思う時、それでも自分は武器を取ることなく、絶対非戦・非暴力を言うことが出来るだろうかと思わずにはいられません。

長い2000年のキリスト教の歴史に想いが至ります。

歴史の支配者たる神を想います。

自分の世界しか見えず、それだけに囚われていれば、襲い来る現実は耐え難いものがあります。しかし、その時、それでも、キリスト者たちは、迫害のもとにあっても世の権力に抗うことなく、神様から与えられた人生の旅路を終えました。絶対非戦・非暴力のままにです。

共助会は、設立当初から、国家社会の動向に対する深い真摯な問題意識がありました。

キリストによる十字架の贖いと復活の信仰に立ち、国家社会に対する見張り役としての役割を果たし続ける。私にとっての共助会は、そのような存在としてありたいと思います。

さらになお、今この時、私たちに求められている課題があります。

激しく揺れ動く世界情勢の中にあって、傍観者として翻弄されるのではなく、現実に分け入り、平和を造り出すに必要な課題を見出し、担う者となることです。

祈りましょう。

【参考】代務となった小高伝道所での初めての説教:導かれるままに

■日 時:2021年4月25日(日) 15時~16時

■聖 書: 旧約 詩編86 編1―10節

新約 マルコによる福音書12章28―34節

初めまして。

この4月から、小高伝道所と浪江伝道所の代務の務めをいただいた飯島信です。現在私が牧会している日本基督教団立川教会では、主任担任教師として5年目の務めを終え、6年目を迎えています。始めに、今日の説教題にも記しましたように、私がなぜ、この地の伝道の働きを負うことを望んだかについてお話ししたいと思います。それは、今振り返れば、私にとっては自然な歩みであったように思います。確かに、この地が、私が仕える場所になることはこれまで考えてもみなかったのですが、コロナ禍の中で導かれた所になりました。

昨年4月、イースターを前にして、東京では緊急事態宣言が出されました。すぐに教会員には、通常の礼拝が出来なくなることと、各家庭での礼拝を呼びかけました。家庭での礼拝を守るためには、遅くとも土曜までに週報と説教原稿が届いている必要があります。逆算すると水曜までにいずれも完成させ、木曜に印刷と発送準備を終え、金曜朝には投函しなければなりません。赴任して5年目を迎える牧会生活の中で、これほどの忙しい日々を迎えたのは初めてのことでした。そして、この忙しさは、宣言が解除される5月末まで続きました。

そうした慌ただしい日々の合間、時折訪れる静寂の中で、ある問いが私に浮かんで来ました。「医療技術を持たない私にとっての医療現場はどこであるのか」との問いです。コロナの感染拡大が深刻化する中、医療技術者を襲う厳しい日々の様子が刻々と伝えられて来ます。もし、私に医療技術があれば、国境なき医師団に加わり、すぐにでも難民キャンプに行きたいと思いました。しかし、私にはそのような技術はありません。それでは、牧師である私にとっての現場はどこであるのか、このまま、与えられた立川の地での牧会で良いのかと思えて来たのです。そのような思いが生まれて来た一方、これまでずっと心の片隅で気にかけていたことがありました。それは、3・11の翌年から5年間、私に与えられた仕事との関わりでの事柄です。

私は、2012年8月から、3・11で被災した教会や被災地の復興を支援する日本基督教団救援対策本部担当幹事の職に就いていました。そのこともあり、教団のボランティアセンターのある岩手県釜石市、宮城県仙台市と石巻市を中心に被災地をめぐり、様々な復興プログラムに取り組んで来ました。取り組みの一つに、被災した教会の再建プログラムがあり、教団に集まった献金はこの支援にも注がれました。支援の内容は、再建に必要な資金に対する給付と貸付に分かれます。そして、私の心の片隅に残り続けていたのは、支援を受けたものの、返済が困難と思われる教会のことでした。その一つが、M市のK教会です。この教会には、教団から多額の支援金が送られていましたが、半分は貸付です。半分と言ってもかなりの額です。そのお金を数名の教会員でどのように返済出来ると言うのでしょうか。しかし、2017年8月をもって退任した私に出来ることは、そのことを心の片隅に覚え続けることだけでした。そうした中でコロナ禍が起き、耳にしたことはK教会の牧師先生は召され、ご遺族は郷里に戻り、教会の礼拝は行われていないと言うことでした。

昨年8月の最後の日曜日、私は教会から夏休みをいただき、K教会を訪れました。外から見ただけですが、会堂も、同じ敷地内に立つ牧師館も、綺麗に再建されていました。代務の牧師先生が訪れ、周囲の草を刈っているとのことでしたが、本当に雑草一つありませんでした。しかし、教会の集会案内の看板には、何も書かれていませんでした。何も書かれていない看板を見た時、思いました。私は、ここに来なければならないのではないかと。現在私が任を負っている立川教会なら、私の後を引き受けてくださる方は見つかるかも知れません。しかし、教会員が2人しかいないこの教会の牧師に手を挙げる方はいないのではないかと思えたからです。そうした中で秋になり、東北教区の責任を持つ先生から、K教会ではなく、小高伝道所と浪江伝道所で奉仕する話しをいただきました。

小高伝道所は、一昨年の8月に訪れたことがあります。教会員であるSさんが守り続けられ、相双宮城南地区の応援を得て礼拝が再開されたことを聞いていました。浪江伝道所は、教団の幹事時代に訪れました。その時は、会堂の椅子も引っくり返ったままで、全ての時が止まったままでした。しかし、小高にしても浪江にしても、原発から最も近い教会で、3・11で被災した象徴とも言える教会です。その教会の復興の任を負うとすれば、それは、この10年、被災地で汗を流した先生方が相応しく、私のような者がその務めを負って良いのだろうかとの戸惑いもありました。そうした思いもありながら、昨年11月、浪江・小高を訪れた後、神様の御心に適うことであれば、この地での伝道の業に従事出来ることを祈り始めたのです。

私がこの地で働ける時間がどれだけになるか、それは神様が決められます。そのことを覚えながら、希望があります。小高では、私に許された時間、私の次に来る方のために、Sさんと祈りと力を合わせ、より豊かな交わりを生み出せる教会になることです。浪江では、再び礼拝の明りを灯すことです。このような希望が与えられていることを心から神様に感謝し、今日与えられた御言葉を見てまいりましょう。(以下略)

(日本基督教団 小高伝道所・浪江伝道所牧師)